新生活 2
遼太郎が初めて独り暮らしをすることになるアパートは、大学から自転車で15分ほどの住宅街の中にあった。周りに同じようなアパートやマンションが並んでいる。新しくはないが、ボロでもない。オートロックの出入口などはなくとも、手入れの行き届いた小奇麗な単身者用のアパートだった。
「あんまり大学に近すぎたら、たまり場になるかもしれないしね。」
と言うのは、このアパートを探してくれた遼太郎の姉の真奈美だ。
飛行機と電車を乗り継ぎ、真奈美と落ち合った遼太郎と母親は、不動産屋で本契約をした後、ようやくアパートへと到着した。
「私の大学はずいぶん郊外だけど、遼太郎の大学はホント都心の真ん中にあるから、羨ましいなぁ~」
「その分、家賃も高いでしょう?」
「うーん、だけど、この辺にしては家賃も手ごろだったのよ。」
「そう?お母さんとしては、もう少し安いところの方が助かったんだけど…」
「そりゃ、築五十年とかでもよかったらね。でも、やっぱり念願の大学生になったんだから、少しは快適でないと遼太郎も可哀想じゃん。」
姉と母親のそんな会話を聞きながら、遼太郎は窓を開けて、やっと一人分の洗濯物が干せるくらいの小さなベランダへと出てみる。そして、そこからの眺望を確かめた。
眺望とは言えないその視界には、マンションや一軒屋の屋並みと遠く高層のビルが並んでいる。辛うじて近くに高い建物はなかったが、その空は狭かった。
ここでこれから4年間、遼太郎は暮らさなければならない。
新しい世界に一歩踏み出し、目の前は明るく拓けているというのに、遼太郎の心はピクリとも動かなかった。目に映るもののすべてが、薄暗いフィルターをかけられたようにどんよりとしている。
感性を司る心は、みのりに別れを告げられて家路を自転車で辿る間に、カラカラに干からびて凍り付いてしまっていた。感じる心を生かしておいたら、体の芯に巣くう哀しみに気が付いて、自分で自分を制御できなくなる。
ここまでやって来るのでさえ、何も自分では判断ができず、木偶人形のように母親の言いなりになって動くだけだった。
近くのコンビニで買ってきた簡単な昼食を済ませてしばらくすると、注文しておいた家電製品や芳野から送った荷物が、矢継ぎ早に到着した。姉と母親は、それらを荷ほどきし、手際よく整理し始める。
このころになって、姉の真奈美が遼太郎の様子が普通ではないことに気が付いた。
「…お母さん…。遼太郎、ちょっと変じゃない?久しぶりだから気のせいかな…って思ったけど、そうじゃないよね?」
「そうなのよ。昨日帰ってきてから、あんな感じ。もしかして彼女にフラれたりしたのかしら。」
「……ええっ?!彼女?遼太郎にぃ?!それ、ホント?信じられないんだけど。」
「それがね。いるらしいの。あっ!フラれたんなら、『いた』らしいのよね。」
重い腕を動かして、荷物の整理をしていた遼太郎は、母と娘のヒソヒソ話を耳にして立ち上がり、その背後に歩み寄った。
「フラれたんじゃ、ねーし!!」
眉間に皺を寄せて、ひとこと言い放つ。
「えっ?えっ?!フラれたんじゃないって、どういうこと?って、やっぱり彼女がいたの?どんな子?下級生?」
と、真奈美から追いを打って質問攻めにされたが、遼太郎は答える気はなかった。その彼女が、真奈美も知っているみのりだったとは、到底言えない。
――…それに、あれはフラれたとは言わない……。
辛い記憶が甦ってきて、遼太郎は唇を噛みしめた。
フラれる…。その言葉に当てはまるような、気持ちが冷めたり嫌いになったから…なんて、そんな単純なものではない。
いっそのこと、そんな単純なことだったら、どんなにいいかと思う。それだったら、数年後に再会して冷めた気持ちに再び火が付き、よりが戻ることもあるかもしれない。
けれども、「好きだから別れる」決断をした場合、…それは不可能だ。
疼く傷を抱えて、それにひたすら耐えるように、遼太郎は黙々と荷物の整理を始めた。
「遼太郎……。」
そんな弟の背中に、姉はそれ以上かける言葉も見つからず、無神経に詮索することも、不用意に励ますこともできなかった。




