新生活 1
離任式の後の送別会が終わり、二次会、三次会と渡り歩いたみのりと澄子が、みのりのアパートへと帰り着いたのは、日付が変わって午前2時ごろだった。
離任する澄子は、花束やお餞別などの大荷物を抱えて、居間へとへたり込んだ。みのりは帰ってくるなり、浴室に向かい、タオルなどを出して入るための準備をしている。
「ほら、澄ちゃん。座りこんじゃうと、動くのがしんどくなるよ。さあ、お風呂、先に入って。お酒飲んでるから、シャワーだけにしようね。」
と、疲れてぐったりしている澄子を浴室へ連れていく。
澄子がシャワーを浴びている間、みのりは簡単に澄子の荷物の整理をして、甲斐甲斐しく布団の準備をした。そして、送別会用の少し改まった洋服を脱いで、楽な服に着替える。
何かしていないと、今にも心の堰が切れて、その中に滅茶苦茶に突っ込まれている様々な感情が暴れ出してきそうだった。
「ああ、さっぱりした。お先に、ありがとね~。」
シャワーを浴びて出てきた澄子は、もうかなり眠そうだ。
「澄ちゃん、化粧品、自由に使ってね。それと、もう先に寝ててもいいからね。」
みのりはそう言いながら、澄子と入れ替わりで浴室に向かった。
先ほど着たばかりの部屋着を脱いで、濡れた浴室に入り、シャワーの蛇口をひねる。勢いよく出始めた心地よいお湯の下に体を置いた時、正面の鏡に映る自分の姿が目に入ってきた。
胸元に一片の花びらが落ちているような赤い印――。
それが遼太郎に付けられたものだと判るまでに、時間はかからなかった。
遼太郎の唇の感覚が、みのりの肌の上に甦ってくる。力強い抱擁と深いキスは、遼太郎がみのりの全てを、心の底から求めていた証だ。
その遼太郎の手を、みのりは自ら振りほどき、拒んだ。
そして、遼太郎を傷つけて、突き放した……。
春の優しい夕陽に照らされた柔らかな風景の中、遼太郎の背中が小さくなっていく。
もう二度と見ることはないと、心に決めているその姿を思い出して……、みのりの心の堰が切れた。
今まで、懸命に堪えてきていた涙が溢れだしてくる。体の中から心を取り去ってしまいたくなるほど、心が激しい痛みに耐えかねて悲鳴を上げている。
「うぅ――……」
喉の奥から自然と嗚咽が湧きだして、みのりはお湯に濡れる体を震わせた。
あれほどに純粋な心を、他にみのりは知らない。その純粋な心のすべてで、みのりのことを想ってくれていた。あんな男性は、みのりの人生の中で今までもいなかったし、これからもきっと現れないだろう。
そして、みのりも無垢な少女のような心になって、ただただ遼太郎のことが好きだった。何の打算もなく、見返りも求めず。そこにいる遼太郎の存在が、愛しくてたまらなかった。
これから、他の誰かを愛せないほどに……。
でも、もう、遼太郎に抱きしめてはもらえない。
優しく切ない声で、『好きです』とは囁いてもらえない。
自分で決めた別れだったけれど、みのりの心は遼太郎を求めて、もがき苦しんだ。
それから、どれだけの涙が流れ出たのだろう。それらは激しく流れるシャワーのお湯に溶けて、みのり自身にも分からなかった。
みのりと遼太郎とのロマンスを聞き出したかった澄子は、せっかく二人きりになったにも関わらず、眠気には勝てなかったようだ。すでに安らかな寝息を立てていて、このみのりの苦しみには気づいてあげられなかった。
みのりはこれまでもこれからも、ただ独りで、その体に不似合いなほどの大きな苦しみと悲しみを、抱えて生きていかなければならなかった――。




