あなたのためにできること 9
「…それにね。」
黙って前を見て自転車を押しながら歩いている遼太郎に、みのりはさらに続ける。
「私はあなたの先生だから、あなたを一人前の大人に成長させる義務があるの。」
そう言うみのりの表情は、すべての感情を押し隠して、超然とした決意が現れていた。
護ってあげなければならないみのりではなく、逆に生徒を守り愛してくれる、頼もしい教師の顔のみのりだった。
「遼ちゃん……。あなたの未来には、きっととても広い世界が広がってる。そして、その世界を知って、あなたはあなたの力で、自分の世界を切り拓かないといけないの。これまで、高校っていう狭い世界の中で、私はあなたの成長のために役に立てたけど、これからはそうじゃない。物理的な距離は離れていても、私が心に寄り添っていると、あなたの思考や行動の指標は私になってしまうでしょう?何かを決断するときに、私の存在が影響するでしょう?そうやって、あなたを縛りたくない。私がいるせいで、私があなたの足かせになって、あなたの可能性を狭めたくないの。」
切々と語るみのりの言葉を、遼太郎は黙って聞いていた。
その言葉を噛みしめて、遼太郎は首を振る。
「…そんなことありません!先生が足かせだなんて…。俺、今までだって、先生がいてくれたから頑張れたし。これからだって…!!」
みのりが自分から離れていこうとしているのを、遼太郎は何とかして引き留めたかった。
けれども、このみのりの言っていることを覆せるだけの言葉を、未熟な遼太郎は持ち合わせていない。
「ううん。私がいなくても、頑張れる人にならないとね。だから、そうしないとダメなのよ。……それにね。」
と、みのりは少しためらった。
それを言うべきかどうか迷うように唇を噛んで、思い切って口を開く。
「ここで、あなたを私から自由にしてあげないと、私は一生自分を責めて生きることになる。一生あなたは私の側にいてくれるかもしれないけど、あなたは本当に幸せなのかって、ずっと疑いながら一緒にいなきゃいけなくなる。」
遼太郎は息を呑んだ。
みのりの言葉に衝撃を受けて、立ち尽くした。
これから自分の存在が、みのりの苦しみを生むなんて……。その現実を突きつけられて、遼太郎は体を震わせた。
深い哀しみをたたえた目で、遼太郎はみのりを見返す。
その目を見て、みのりは遼太郎を傷つけてしまったことを悟った。それを自覚すると、罪悪感と愛しさが募って、封印している涙が暴れ出してきそうになる。
――…ダメよ!泣いては!!…絶対に。
泣いてしまったら、また遼太郎は『東京へ行かない』と言い出すかもしれない。
みのりは歯を食いしばって、腕組みしている手に力を込める。懸命に感情を制御して、気を取り直すように少し明るい声で言葉を続けた。
「これからの大学生活は遼ちゃんが生きていくうえで、すごく大事な4年間だから。自分のことは自分で考えて、たくさんの人と出逢って、いろんなことに挑戦して自分を高めるの。女の子とだって、ちゃんとお付き合いするのよ。やっぱり何人かと付き合ってみなくちゃ、女の人のことも理解できないし…。」
みのりの明るい声にも遼太郎の表情は晴れず、眉間に皺をよせ唇を震わせている。
その哀しみを一掃するように、みのりは敢えて満面の笑みを作った。
「これが、私が出す最後の宿題よ。頑張って、ちゃんとやるのよ?」
みのりの笑顔と明るい声を受けて、しばらくの間、遼太郎はじっとみのりを見つめていた。
哀しみと諦めの入り混じった眼差しで……。
みのりも目を逸らさずに笑顔のままで、信念を持って遼太郎を見つめ返す。
春の日の優しい夕陽が、遼太郎の背後を照らし出し、まるで遼太郎の行く道を示して守ってくれているようだった。
そして、遼太郎がようやく口を開く。
「先生の言う通りにして、それでも俺には先生しかいないって分かったときは、先生のもとに戻ってきていいですか…?」
みのりの笑みが、少し薄くなる。それでも、その笑みを壊さずに、ゆっくりと首を横に振った。
「それで、『いい』なんて言ったら、ここでの決意が無駄になるわ。私は待ってなんかないわよ。それに、私は私の道を独りでもしっかり生きていけるから、心配しないで。」
一縷の望みも決定的に突き壊されて、遼太郎は哀しみが爆発しそうになった。渋面を作り、奥歯を噛みしめ唇を引き結ぶ。
そんな遼太郎の顔を、みのりは強い眼差しで見上げて、いつもの励ましの言葉で促した。
「さあ、回れ右して、胸を張って一歩踏み出して!あなたの進む道は向こう側。私へは向かってないの。振り返っちゃダメよ。」
今まで通り、遼太郎の背中を押してくれる力強い言葉だった。
目の奥が熱くなって、遼太郎は歯を噛みしめたままゴクリと唾を呑み込んだ。
そして、みのりはいつものように遼太郎の心を切なく震わせる微笑で、最後の一言を投げかける。
「頑張ってね、『…狩野くん…』。」
――…狩野くん…。
遼太郎は心の中で反復した。もうその可憐な唇で、『遼ちゃん』と呼んでくれることはなかった。
これ以上、抗うことはできず促されるまま、遼太郎は自転車の向きを変えた。無理やりに意を決して、橋の方へと自転車のペダルをこぎ始める。
顎が震えて、涙が込み上げてくる。
それを打ち消すように、遼太郎はペダルをこぐ足に力を込め、全速力で自転車を走らせた。
もう二度と、会えないかもしれない……。
不意にその現実に突き上げられ、振り向いてみのりの姿を確認したくなる。『振り返っちゃダメ』というみのりの言葉を思い出して、必死でそれを思い止まろうとした。
それでも、もう橋が見えなくなるという場所まで来て、やっぱり我慢が出来なくなり、遠く橋の方を振り返る。
みのりは橋の中ほどまで来て、遼太郎を見送ってくれていた。
川沿いに咲く桜の花の淡いピンクを背景に、赤いカーディガンを着たみのりのたたずむ姿。
その光景は、一瞬で遼太郎の網膜に焼き付けられ――、遼太郎が目を閉じるといつでも、まぶたの裏に浮かび上がってくる像となった……。




