あなたのためにできること 8
遼太郎が自転車置き場から自転車を出すのを、みのりは側でたたずんで待ち、アパートから数百メートル離れた橋の方へと向かって、二人で並んで歩きはじめる。
日はずいぶん傾き、長い影を作り始めていたが、まだ春の麗らかさの余韻が残っていた。
道下の河原には菜の花が満開で、川沿いの土手の上の桜はこれからが見頃だ。そんな穏やかな空気の中、ただ二人は無言でゆっくりと歩いた。
離れ離れになる時間が、刻一刻と迫っている。
このまま数か月間会えない時間を過ごさねばならないと思うと、遼太郎は居ても立ってもいられない気持ちになる。
体では繋がれなかったけれども、心は繋がっている――。
それを確認してから、みのりのもとを旅立ちたかった。そのための言葉を探していたその時、
「……遼ちゃん……。」
と、みのりの方から口を開いた。
自分を呼ぶ切なさをはらんだその響きに、みのりも名残を惜しんでくれていると、遼太郎は感じ取った。
返事はせずに、ただ優しい視線をみのりへと向けて、静かにその先の言葉を待つ。
見つめられたみのりは、まだキスの余韻が残る唇を噛んで言いよどむ。
そして、決意を固めたように目を閉じて、言葉を絞り出した。
「…もう、遼ちゃんが大学生になったら、こんなふうに会うのはやめにしよう。」
その意味を解しかねて、遼太郎は絶句する。
黙り込んだ思考の中は、混乱して整理がつかない状態だった。ただ、悪い予感が足元からじわじわと、遼太郎を蝕もうとしていた。
「……どういうことですか?」
静かな声だったが、言葉の響きは遼太郎の動揺を映している。
「付き合うとか、そういうことはやめにするの。大学に行って素敵な女の子と出逢っても、私が遼ちゃんの彼女でいたら、遼ちゃんはその子をはじめから好きになろうとしないでしょ?」
みのりの言おうとしていることがはっきりしてきて、遼太郎は取り乱し始めた。落ち着かなげにみのりの顔に視線をさまよわせ、唇を震わせる。
「先生と別れるってことですか?!……嫌です!!」
そう言いながら、遼太郎は首を横に振り、自転車のハンドルを握りしめた。
「俺は、ずっと先生のことが好きで、せっかく想いが通じ合えたのに……。それとも、やっぱり俺のことは、好きじゃなかったってことですか?」
――好きな人とじゃなきゃ、キスなんてしない…!!
みのりは遼太郎の問いかけに、本当はそう叫びたかったが、必死にそれを思い止まる。
――ごめんね…。遼ちゃん…。
目を閉じて、今から自分が遼太郎を傷つけようとしていることを心の中で詫びて、答えるための言葉を探した。
「好きとか、そういうこと以前に、私は十二歳も遼ちゃんよりも年上だから、遼ちゃんに似つかわしくない。一緒に生きていくには、私じゃない方があなたのためだと思う。」
「そんなことありません!俺にとって先生以上の人がいるはずがない。」
さっきこそ、あんなキスを交わしておいて、こんなことを言い出すみのりのことが、遼太郎は理解できなかった。
「今はまだ、遼ちゃんは狭い世界の中で生きているから、そう思うのかもしれないけど……。私よりもすばらしい女性はたくさんいるし、人の心は変わりやすいの。きっとこれから遼ちゃんの周りには素敵な女の子がたくさんいて、きっとその子たちのことが好きになる。もしそうなったとき、私という存在がいたら、あなたは苦しまないといけなくなる。」
実際、高校生の時は将来を誓い合っているような恋人たちでも、大学進学と共にそれぞれが新しい環境の中に身を置くようになると別れていってしまうのを、みのりはたくさん見てきている。
それは高校生同士はもちろん、想いが通じ合った男性教師と女子生徒の場合でも。
そうなる前に、みのりは遼太郎を自由にしてあげたかった。
遼太郎は、そんなありえない未来のことを危惧するよりも、今現実となって遼太郎に襲いかかろうとしているこの苦しみを、どうにかしてほしかった。
返す言葉に窮して、唇を噛んでみのりから目を逸らす。
遼太郎は心の底から本当に、この世のすべてのものに代えがたいほど、みのりのことを愛していた。一緒にいられるためならば、人生の全てを捧げてもいいとさえ思っていた。
こんなにも深く想っているということを、今のみのりに解ってもらいたい。
簡単に人を好きになって、その時の気まぐれで簡単に別れていく、周りにいる普通の高校生たちとは違うということを解ってもらいたかった。
けれども、今それをいくら言葉で訴えても、みのりにはきっと解ってもらえないだろう。解ってもらうには、想いか通じ合ってから二人で居られた時間が短すぎた。




