切ない心の中 5
それでも、遼太郎のためには背に腹は代えられない。意を決して加藤に切り出して何とか休みを取り、みのりが遼太郎に連絡が出来たのは水曜日の夜だった。
遼太郎が東京へ発つ週末まで、あともう二日しか残っていない…。
『連絡が遅くなって、ごめんね。なかなか仕事がはかどらなくて…、休みが取れたのは、金曜日の離任式の後から夕方までなの。それでもいい?』
みのりからのメールの着信音が鳴ると、荷物の整理をしていた遼太郎は弾かれたように立ち上がり、机の上に置いてあったスマートフォンを手に取った。
「金曜日…。」
思わず遼太郎はつぶやく。
次の日の朝には、遼太郎は母親と共に東京へと向かわねばならない。
ギリギリになってやっと…ということは、本当は仕事が忙しくて大変なのに、無理をして休みを取ってくれたのだと、遼太郎は察した。
『金曜日でも、大丈夫です。山崎先生が離任するので、俺も離任式に行く予定です。』
遼太郎は手早く画面をタップして、返事を送る。
しばらくそのまま、みのりから返事が来るのを待っていたが、5分たっても返ってこなかったので、やり取りはこれで終わりかと、遼太郎はため息をつきスマホを置いて荷物の整理に戻った。
もともと洋服をたくさん持っているわけでもなく、本の類も大学では必要のないものばかりなので、東京に持っていく荷物の量はたかが知れている。
しかし、東京とは別方向に心のベクトルの向いている遼太郎は、取り掛かりがすっかり遅くなり、母親にせっつかれてようやく荷造りを始めたところだった。
みのりから個別指導を受けていた時にもらった、日本史の用語集が目についた。それを手にした遼太郎は、迷いなく東京へ送る荷物の中に入れる。
今は何でもネットで調べられるし、きっと使うことなどないだろう。けれども、これは遼太郎にとって、お守りのようなものだった。
他にも、添削指導を受けていた時の問題プリント類。びっしりと書き込まれた解説は、みのりの手によるものだ。もう必要のないものだけど、どうしても捨てられずに今まで取っておいた。
癖のない端正なみのりの文字を見つめているだけで、遼太郎の胸がキュンと鳴く。遼太郎は唇を噛んでその感情を味わいながら、それらをクリアファイルに入れて、やはり東京へ持っていく荷物の中に入れた。
本の類の整理が終わり、風呂へ入ろうとしたところ、みのりからメールが届いているのに気が付く。
『じゃあ、離任式が終わった後、どこかで落ち合うことにする?といっても、その日の夜は送別会があるから、夕方までしか一緒にいられないけど…。』
その文面を読んで、遼太郎は考える。そして、唇を湿らせてから、返事を打つ手を動かした。
『その日は、どこにも行かずに、先生の部屋で先生の作ってくれた昼飯が食べたいです。宇佐美と平野も食べたんだから、俺にも食べさせてください!』
こんな返事を送ると、みのりに触れたいと思っている下心が見え見えなんじゃないか…?とも思ったが、金曜日のこのひと時の後には、数か月会えない時間が横たわっている。
その前の短い貴重な時間を、誰の目も気にすることもなく、どんなことにも邪魔されない場所で過ごしたかった。
『宇佐美さんと平野さんがうちに来たこと、よく知ってたね。お昼ご飯、了解しました。そうだ。遼ちゃんは、これから自炊をしないといけないんだから、一緒に作ろう!何が食べたい?』
今度は少し待ったら、数分の後にみのりから返信があった。即行で遼太郎は返事を送る。
『ハンバーグがいいです!!』
遼太郎は自分が一緒に作るということは考えずに、自分が一番好きなものを迷わず答えた。
『ハンバーグね。材料をそろえておきます。それじゃ、金曜日は離任式が終わったらすぐに帰るから、遼ちゃんも学校からそのままうちに来てね。』
『了解です。』
最後の短いメールを受け取って、みのりはパタンと携帯電話を閉じた。……そして、頬を伝う涙を拭う。
やり取りがメールで良かったと、みのりは思った。電話で話をしていたら、きっと涙声になって遼太郎にそれを気づかれただろうし、あんなに明るく受け答えはできなかっただろう。
一人でいるときに遼太郎を思い浮かべると、決まって涙が溢れてくる。
涙の原因は、みのりの中にある一つの決意。
誰よりも愛しい男性――。
そして、誰よりも大事な生徒――。
この小さな街を出て、これから大きな世界へと一歩を踏み出す遼太郎のために、その遼太郎が人間として大きく成長していくために…。
そのことをみのりはずっと考えていた。
そしてようやく、その決意が固まりつつあった。




