練習試合 6
みのりが話題を探していると、遼太郎の方が先に口を開いた。
「…先生の作ったおにぎり、食べたかったです。」
口を尖らせて、いかにも残念そうな遼太郎に、みのりの方も笑いをもらす。
「今日のおにぎりは疲労回復のために、梅干しだけなのよ。この前城跡に行った時みたいに、ツナマヨや鮭のはないの。」
そう言えば、自分はすでにみのりのおにぎりを食べたことがあることを思い出して、遼太郎は自分自身をなだめて、息を吐いた。
そしてまた、二人の間に浅い沈黙がよぎると、遼太郎は無意識に焦り始めた。
黙っていると、自分の中に充満している〝抱きたい〟という欲求が、体の中から滲み出てきて、みのりに覚られるのではないかと、気が気ではなかった。
「この写真は、卒業アルバムの分?」
部室の一番奥に並べて掛けられている、歴代の部員の集合写真の方へと、みのりが歩み寄る。
「遼ちゃんが写ってるのは、どれ…?」
と、20枚ほどある写真に、みのりが目を走らせていると、遼太郎が側に来て指を差した。
「あっ!これ。1年生の遼ちゃん?!」
嬉しそうに、目を輝かせて振り向いたみのりの表情に、遼太郎の心臓がドキッと跳ね上がった。
そんな顔をされると愛しさが募って、抱きしめたくてたまらなくなる。
「1年生の時はまだ、遼ちゃんは細くて小さかったのね。今みたいになるために、ずいぶん食べてすごく鍛えたんだね。」
みのりは一番後ろの列の端に立つ遼太郎の姿を見て、微笑んだ。
…そして、堂々たる3年生の横で座っている口髭の男、顧問だった石原を見つけて、ズキンと胸に痛みが走る。かつて遼太郎に打ち明けた不倫相手が、実は石原だったと知ったならば、遼太郎はどんな反応を示すだろう…。
「エトちゃんも、1年生の時にはまだ小さいんですよ。」
遼太郎にそう言われて、みのりは心の乱れを押し隠しながら、石原から衛藤へと目を移した。
言われてみると、遼太郎だけではない。衛藤も二俣もまだあどけなさが残る少年だ。
それから、2年生の時の写真、3年生の時の写真へと、遼太郎の成長を追っていった。
3年生の写真の遼太郎はみのりも知っているはずなのに、この写真の時と比べると今の遼太郎は、ずいぶん精悍になったと思う。
前列に座る遼太郎の後方に立つ荘野に気がついて、再びみのりの胸に影が差した。
「…遼ちゃん…。荘野くんね、やっぱり学校辞めちゃった…。」
それを聞いた遼太郎も、消沈した面持ちになる。
「…佐藤から聞きました。」
「遼ちゃんにも助けてもらったのに、…結局荘野くんの力になってあげられなかった…。」
そう話す間にも、みのりの声が震えてくる。
「…先生は個別指導をしたりして、十分荘野の力になってくれたと思います。それに、今を乗り越えられても、2年3年と勉強はどんどん難しくなっていくし、いずれは行き詰まったと思うから、今の内に別の道を行った方が、荘野のためかもしれません。」
みのりが自分を責めないように、遼太郎は一生懸命になって言葉を尽くす。
「…そうかもしれないけど…。」
みのりは写真の中の荘野を見つめながら、声を詰まらせた。
そんなみのりを目の前にして、遼太郎の胸は、キリキリと痛み始める。
「荘野くんだって、1年前に入学してきた時は、希望でいっぱいだったはずなのに…。そうやって入ってきた子を一旦預かったら、遼ちゃんが卒業していったみたいに送り出してあげるのが、教師の務めなのに…。」
みのりがそう言って目を閉じた瞬間、涙がこぼれ落ちた。その涙に、遼太郎の体は無意識に反応する。
気づいたらみのりの背後からそっと、抱きしめていた。
みのりの涙が落ち着くまで、遼太郎はしばらくそのまま、優しく抱きしめていたいと思っていたが、そんな思いとは裏腹に、自分の中の想いの高ぶりに任せて、その腕に力がこもった。
みのりの涙を見ると、遼太郎はたまらなくなる。抱きたいとか、そういう欲求以前に、みのりの傍にいて守らなければ…という焦燥に駆られて、居ても立ってもいられない気持ちになる。
「…遼ちゃん…?」
状況に気づいたみのりが、戸惑いながら声を掛ける。部室の中では二人きりとはいえ、こんなところを他の誰かに見られないとも限らない。
けれども遼太郎に、その腕の力を弱める気配はなかった。
試合の後の遼太郎からは、いつものように土埃と汗と太陽の匂いがする。
みのりの頬から涙が滴って、背中から回される遼太郎の腕に落ちた。
遼太郎の腕の肘には、先ほどの練習試合で負った擦り傷があり、みのりは自分の涙の雫とその傷を、少しの焦りを伴いながら、しばらく見つめていた。
「先生…!」
絞り出すように声を発し、遼太郎がようやく反応を示す。みのりの返事を待たずに、抱きしめる腕にはいっそうの力がこもった。
「俺…、大学なんか、東京なんか…行きたくない。ずっとこうして、先生の側にいたい…!」
こんなふうに泣くみのりを置いて東京へ行くことを考えただけで、遼太郎は感情がかき乱されて、気が狂いそうになってしまう。
何よりも、こんなに愛しい人と何日も何年も離れているなんて、堪えられない。
いつでもみのりに、こうやって触れてキスのできる場所に、そして悲しみを分かち合えて、苦しみから守ってあげられる距離に、遼太郎は居続けたかった。