「彼氏」と「彼女」 1
朝になって、みのりの容態は安定していたものの、もうしばらくは様子を見るために入院することになり、遼太郎は一旦帰宅することにした。
まだ薬で眠っているみのりの顔色を確認して、静かに病室を出る。
来るときには、救急車の中で「早く、早く」と気が急いて、とても遠く感じていたけれども、みのりの運ばれた病院は案外近いところで、遼太郎は歩いてアパートまで帰ることにした。
秋の朝の爽やかな空気が流れていっても、遼太郎の心はこの青空のように晴れ渡ってくれなかった。みのりに愛を語り、みのりもそれを受け止めてくれたというのに、胸の底に鉛の塊のようなものがあって消えてくれない。
重い足取りでアパートの階段を上がり、自分の部屋のドアの鍵を開ける。この鍵のことだって、みのりが指示してくれた。もし、みのりが気を失っていたら、この鍵だってかけて出ていたか分からない。それ以前に、救急車だってちゃんと呼べたか分からない。
ドアを開けて、薄暗い部屋に入ると……、そこには大きな血だまり。その周りには、血に染まったタオルが散乱していた……。
これは、昨晩みのりが流した血。
その惨状を改めて目の当たりにして、遼太郎はその場に、力なく跪いた。体の震えを膝に両手をついて堪えても、涙はどうしても堪えきれず、粒になって零れて落ちた。
――……先生を、大変な目に遭わせてしまった……。
とてつもない罪悪感が、遼太郎に襲いかかる。
どうやったら償えるのだろう。どうしたら、みのりが感じた苦しみを分かち合えるのだろう。
遼太郎はそのまましばらく、うつむいたまま動けなかった。……でも、今の自分がしなければならないことは、こうやって落ち込んでいることではない。
涙を拭って立ち上がると、散らばるタオルをかき集めた。それからバケツと雑巾を持ってきて、掃除を始める。
昨晩から何も食べていないし、ほとんど寝ていない。それでも、遼太郎は動き続けた。何かして動いていないと、この罪悪感に自分が押しつぶされてしまいそうだった。
みのりがここへ来るときには、かなり衝動的だったらしく、着替えなどまともな荷物を持ってきていないようだ。しばらく入院するのなら、必要なものもそろえておかなければならない。
……だけど、男の遼太郎がみのりの下着を買うのは、かなり抵抗がある……。どうしようか…と、遼太郎が思案に暮れていた時に、部屋の玄関チャイムが鳴った。
――こんな時に誰が来る……?まさか、また長谷川が……!?
不審に思って胸騒ぎを覚えながら、遼太郎は雑巾を持ったままドアへと向かう。
「よう。大丈夫か?」
すると、ドアの向こうには、佐山が立っていた。
「スマホで連絡取ろうとしたけど、電話は繋がらないし、メールやラインにも反応ないし……、気になったから来てみた。」
そういえば病院にいたこともあって、佐山と連絡を取ったきり、スマホの電源を落としていた。
遼太郎はホッとしながら、佐山を迎え入れた。張り詰めていた神経が少し緩んで、気持ちに余裕が生まれてくる。
「夜中に、呼び出して悪かったな。でも、本当に助かった。ありがとう……。」
遼太郎に感謝されて、佐山は肩をすくめる。そして、その場の状況を見回して、親友に声をかけた。
「……大変だったな。でも、そんな大変なときに俺を思い出してくれて嬉しいよ。」
それを聞いて、遼太郎も佐山を見返して、かすかに口角を上げて応えた。
「それで……?お前の彼女の容態は?」
「うん……。もう大丈夫だけど、大事をとってもう少し様子を観てから退院になるって……。」
「そっか。だったら良かった……。」
佐山も肩の力を抜いて居間まで行くと、遼太郎の勉強机の椅子に腰を下ろす。
「……長谷川は……?どんな様子だった?何か言ってたか?」
遼太郎は手にあった雑巾をバケツに投げて、手を洗いながら佐山に尋ねた。すると、居間の方から佐山の大きなため息が聞こえてくる。
「陽菜ちゃん、俺が車で送ってる間中、ずっと黙ったままだったけど……。とんでもないことしでかした割には、他人事みたいにケロッとしてたよ。」
それを聞いて、遼太郎も大きなため息をつく。警察に届けず〝事件〟にしなかったのはいいが、これからも大学で会うであろう陽菜に対して、どんなふうに応じていくべきか分からなかった。
「今回のことは、俺もずいぶんショックを受けてるんだ。〝女〟って怖いな。本気で分からなくなったよ。」
佐山の神妙な声を聞いて、遼太郎はその真意を探るように彼の顔を見つめる。
「俺……、陽菜ちゃんのこと、本当に可愛い子だって思ってたんだ。顔もスタイルも、もちろん性格や頭の良さも、あんな完璧な子はいないって思ってた。……だけど、あんな恐ろしい女だったなんて……。」
佐山はまるで自分に降りかかった災厄のように、うなだれて頭を抱えている。
でも、そう思っていたのは、佐山だけではない。遼太郎だって陽菜のことを、そこまでしてしまう女だとは思っていなかった。この命よりも大切なみのりと、似ているところがあると思っていたくらいだ。
「猛雄はあの子のあんなところを、見抜いてたんだな。猛雄に言われた通り。俺には女を見る目がなかったってことだ。」
再び大きなため息をつく佐山を励ますように、遼太郎は薄く笑いかけた。