宿題の代償 12
陽菜は思わず、逸らしていた目をみのりに合わせて、そこから視線を動かせなくなる。
みのりも、戸惑いを宿す陽菜の目を、ジッと見つめ返した。まっすぐなみのりの目で見つめられると、陽菜も自分の心を偽れなくなる。
「……私だって、先生みたいに……、狩野さんに抱きしめてもらいたかったのに……!」
唇を震わせながらその思いを吐露した時、陽菜の目に涙が浮かんだ。でも、これまでも陽菜は、どんなことがあっても泣かなかった。このときも必死で涙を飲み込んで、潤んだその目でみのりを睨むように見つめ返した。
「それは、遼ちゃんの意思だから……。私も遼ちゃんのことが好きだけど、たまたま遼ちゃんも好きでいてくれるから、抱きしめてもらえるの。私は遼ちゃんの気持ちを縛ったりしていないし、抱きしめてもらいたいのなら、遼ちゃんの心を動かして好きになってもらうしかない。」
みのりは努めて冷静に、普段生徒に接するように陽菜に語りかける。
「それができたら、こんなに苦しんだりしない。どんなに私が頑張っても、そうなるように仕向けても、狩野さんは全然見向きもしてくれなくて。女の人に興味がないのなら納得できたけど、あんなふうに私以外の人を抱きしめるなんて許せない……!」
その陽菜の言葉を聞いて、初めてみのりは陽菜の本来の性質に気がついた。まじまじと陽菜の顔を見つめるみのりの表情が曇り始める。
「だから、遼ちゃんを刺そうと?死んだら、〝天国〟で遼ちゃんと一緒にいられると思ったの?」
「そうでもしないと、狩野さんを私のものにできないもの。」
このままでは、まだ遼太郎の身が危ない――。みのりは直感的にそう思った。その表情をいっそう険しくして、みのりは陽菜に訴えかけた。
「死んだら、確実に天国に行けるの?命は巡るかもしれないけれど、同じ時代に同じ場所に生まれ変わることはできるの?死んでしまったら、今のあなたの体も意識もなくなって、自分が自分でなくなるの。同じように、あなたの好きな遼ちゃんも、今ここで生きているから遼ちゃんなのよ。そんなかけがえのない存在を、どうして消してしまおうとするの?」
「先生に渡たすくらいなら、狩野さんの命は私がもらう。」
みのりと陽菜の会話を聞きながら、遼太郎は息を呑んだ。陽菜の語った想いは、遼太郎がみのりと交わす想いとは全く異質のもので、その執念とも言える想いに、遼太郎は恐怖さえ感じた。
陽菜がそう言い放つのを聞いて、みのりは思わず、その重い体を無理に動かして、ベッドの上に起き上がった。
「遼ちゃんに、手出しはさせない!絶対に……!!」
力が入らないみのりは、叫ぶことはできなかったが、その言葉には魂が込められて、とても力強く響いた。
とっさに遼太郎が駆け寄り、ふらつくみのりの体を支える。それでも、みのりは陽菜から視線を逸らさず、彼女の目を強く射抜いた。
「遼ちゃんの命を奪うために、きっと前から計画していたんでしょう?あなたがその計画を決行した今日、私がここにいたのは、運命だったんだと思う。遼ちゃんを守るために、私はここに導かれたの。」
陽菜は、みのりの計り知れない強さを持った眼差しから逃れようとしたけれども、どうしてもそこから目を逸らせなかった。冷静の中で燃えているみのりの怒りを真正面から受け止めざるを得なくなって、陽菜は言葉を返すどころか息もできなくなった。
「そして、今日私が死ななかったのは、生かされたからよ。あなたがまた遼ちゃんを狙っても守れるように。あなたが何度遼ちゃんに近づいても、私が生きてる限り、私は何度でも遼ちゃんの盾になるから。」
遼太郎に支えられなければ維持できない弱々しいみのりの体。その体から響いてくる力強い言葉を間近で聞いて、遼太郎は鳥肌が立った。
こんなにか弱いのに自分を守ってくれようとしているみのりが、いじらしくて愛おしくて、遼太郎はみのりの肩を抱きながらそんな自分の中の感情を噛みしめた。
遼太郎も顔を上げて、傍らに立つ陽菜を見上げる。その目は先ほどのように、憎しみに満ちて冷たいものではなかった。
「……もう分かっただろう?俺にとって、先生以上の人はいないんだ。俺に想いをかけてくれて、いろいろ尽くしてくれたことはありがたいと思ってるよ。だけど、もう終わりにしてくれないかな?君のしたことも、警察には言わないでおくから。」
陽菜のしたことは、どんなふうに解釈しても絶対に許されることではない。本来ならばきちんと警察に届けて、罪を償わさなければならないことだ。
けれども、遼太郎がこのまま終わらせようとしたのは、みのりの意思を大切にしたこともあるが、みのりを守るためでもあった。
〝事件〟として警察に届けて調べを受けると、みのりは勤める芳野高校の校長へ報告しなければならなくなるだろう。元生徒のところで、恋愛関係がもつれて刃傷沙汰の原因を作った…。その事実は、教師であるみのりの立場にも支障をきたし、被害者なのに責められることもあるかもしれない。
それに、遼太郎の中ではなによりも、陽菜とのことはここで一切終わりにさせて、金輪際関わりを持ちたくなかった。
『分かっただろう?』と言われても、陽菜はまだ分かりたくなかった。自分の中にこんなにも完璧に作り上げた遼太郎への〝恋〟が、目的をなくして消えていってしまうなんて……。
でも、もう遼太郎の心も体も、……その命も、手には入らない。そもそも遼太郎は手に入れるものではなく、誰のものでもない〝かけがえのない存在〟。
それに気づいたとき、陽菜の頬に涙が伝った。これまでどんなに遼太郎に突き放されても、見せることのなかった陽菜の涙だった。
遼太郎とみのりは同じ心を共有して、陽菜の涙を同じ眼差しで見つめた。ずっと離れ離れでいたはずなのに、こんなに想いを通わせてる二人の間に入り込めるわけがない。
「……分かりました。もう、終わりにします。だから、もう帰っていいですか……?」
涙を手の甲で拭いながら、陽菜がか細い声を発する。陽菜からはなんの謝罪の言葉もなかったが、遼太郎もみのりも、それを不服に思って引き止めようとは思わなかった。
みのりの心を代弁するように、遼太郎が静かにうなずく。
すると陽菜は、どちらかがそうしてくれるのを待っていたかのように、なんの余韻も残さず、すぐに踵を返して病室を出ていった。
遠ざかっていく陽菜の足音。
二人は寄り添いながらホッと息をついたが、
「遼ちゃん!」
みのりがいきなりハッとして、遼太郎を見上げた。遼太郎は目を丸くして、みのりを見つめ返す。
「陽菜ちゃん、追いかけて!今すぐ!!」
この期に及んで、そんなことを言い始めるみのりの意図を測りかねて、遼太郎は顔をしかめた。




