宿題の代償 9
「……きゃ……!?」
ドアを開けた瞬間に〝何か〟がぶつかってきて、みのりはかすかな声を上げる。
その次の瞬間、みのりの左の二の腕に熱く貫かれるような痛みが走った。
みのりが来客の応対に出た玄関から、何の気配も感じられない。そのことに遼太郎が気がつくのと、
「……遼ちゃん……。」
と、みのりが呼ぶ弱々しい声が聞こえてきたのは、ほぼ同時だった。
その声色に不審さを感じ取った遼太郎が、ベッドからその身を跳ね上げさせる。自分がどんな格好をしているか。そんなことを考える余裕もなく、居間のドアを開けると、玄関に通じるキッチンの光景が目に飛び込んできた。
左腕を右手で押さえて、うずくまるみのり。
その右手の指の間から、鮮やかすぎる赤いものが止まることなく溢れ出している。
「――先生!!?」
遼太郎が目を剥いてみのりの側に跪くと、みのりは痛みに耐えながら遼太郎に訴えかけた。
「……先に、陽菜ちゃんの手にあるものを取り上げて。」
「……え?」
訳が分からず動揺しながら、遼太郎は玄関のドアを振り返る。するとそこには、ペティナイフのような小さな刃物を両手に握りしめ、その切っ先をこちらに向けている陽菜が立っていた。
「……!!」
声にならない驚きとともに、遼太郎は反射的に動いて、陽菜の手にあったナイフを叩き落とす。
虚ろだった陽菜がその衝撃でハッと我に返り、下着姿の遼太郎に視点を定めると、遼太郎はそんな陽菜の様子を窺いながらナイフを拾い上げて、冷蔵庫の上にそれを置いた。
そして遼太郎は、再びみのりへと向き直って跪く。おびただしい量の血液がみのりの腕を伝って落ちて、それを見た遼太郎はパニックになった。
「先生、この血を止めないと……!」
早く止めてあげないと、みのりが死んでしまう…!直感的にそんな恐れを抱いた遼太郎は、クローゼットの中からありったけのタオルを出してきた。
みのりはタオルの上からギュッと力を込めて圧迫して、止血を試みる。そして、その場にいてタオルで血を拭うばかりの遼太郎に、努めて冷静に声を振り絞った。
「遼ちゃん、救急車を呼ばなきゃ。『私と陽菜ちゃんが二人でお料理してて、誤ってぶつかって怪我した』って説明するのよ?」
「……え?」
あからさまな〝嘘〟を聞いて、遼太郎が聞き直した。
「これを〝事件〟にしちゃダメ。……とにかく救急車呼んで。」
「……は、はい。」
遼太郎は深く考えることもできず、ぎこちなくうなづいてから立ち上がって、スマホのある場所まで急いだ。
119番へ電話をかける遼太郎の緊迫した声を聞きながら、みのりはチラリと陽菜の様子を窺った。
どうして陽菜がこんな行動をとってしまったのか……。それを深く洞察する余裕は、とても今のみのりにはなかった。
陽菜はその場を立ち去ることもできず、玄関のドアの内側に立ちすくみ、その顔を青ざめさせている。
みのりは陽菜に何か言葉をかけようとしたけれど、耐えがたい痛みと出血のせいか、意識が朦朧としてきていた。今は意識のあるうちに、動揺している遼太郎に適切な指示をしておいてあげなければならない。
「すぐ来てくれるそうです。」
そう言いながら戻ってきた遼太郎は、ますます増えてくるみのりの出血の量に狼狽するばかりだ。
「……じゃ、遼ちゃんは服を着て。私の保険証はお財布に入ってるから、バッグごと持っていったらいいわ。アパートの鍵をかけて出るの、忘れないで。……それと、陽菜ちゃん。陽菜ちゃんも救急車に乗せて。彼女を一人にしないで。」
遼太郎は、依然動けない陽菜をチラリと一瞥したが、みのりの指示に異を唱えることなく無言でうなずいた。
手早く服を着て、部屋を出る準備をしている遼太郎に、みのりは力を振り絞ってか細い声をかける。
「……遼ちゃん。……私、もう力が入らなくなって……。代わりに傷口、押さえてくれる……?」
遼太郎がみのりのもとに飛んできて抱きかかえると、みのりはとうとう意識をなくして遼太郎へと体を預けた。
青白く冷たい肌、白っぽく血の気のない唇。傷口を押さえていたタオルからは、もう血液が滴り落ちている。
「――先生……っ!!」
遼太郎は叫びながら、みのりを抱きしめた。
血が止まってくれることを祈りながら、強く傷口を押さえて、命よりも大事な人を抱きしめ続けた。
それから、救急車が来るまでの数分間は、遼太郎にとってまるで永遠のようだった。
病院に到着してからも、みのりが処置を受けている間、遼太郎はひたすら待ち続けた。陽菜も、遼太郎から少し離れた場所に、黙って座ってうつむいている。
先ほど、遼太郎がみのりに付き添って救急車に乗り込もうとしたとき、陽菜はそこを立ち去ろうとした。
「どこ行くんだよ?」
遼太郎は陽菜の腕を掴んで引き戻し、半ば無理やりに救急車へと乗せた。
遼太郎が救急隊員に、みのりの思いついた〝嘘〟の経緯を説明する間も、陽菜は何も言い出さなかった。
こんなことをしでかしてしまった陽菜を問い質したいのはやまやまだったが、今はまだ思考がそこまで回らず、何も言葉にならなかった。




