宿題の代償 5
今までの話の内容が遼太郎の恋人のことだっただけに、それまでの会話が続けられず、ゼミ室にいた三人は不自然に黙り込んだ。
陽菜も黙ったまま三人を見回すとその空気を察したのか、くるりと体の向きを変えるとドアを開けて出て行った。
バタンとドアの閉まる音で、我に返った遼太郎が、とっさに陽菜を追いかけて、ゼミ室から出て行く。
遼太郎の行動の意図が分からず、樫原は心配そうな声を上げる。
「どうしたのかな?狩野くん。陽菜ちゃんと何かあるのかな?」
「さあ?陽菜ちゃんのほかに、ちゃんとした彼女ができたことを言いに行ったんじゃないのか?」
遼太郎に〝彼女ができた〟ことは、陽菜のみならず樫原にとってもショックなことには違いなかった。けれども、樫原は笑って遼太郎を祝福することができた。
「……猛雄。」
そんな樫原に、佐山は意識せずに声をかけていた。切なさを漂わせる面持ちで、樫原は佐山へと視線を送る。
「お前、これでようやく、本当の遼太郎の友達になれたな。」
樫原は不意をつかれたような顔をして、その瞬間その上の切なさが消えた。
「……うん。」
樫原は一言うなずくと、冷えてしまったコーヒーを一口飲み込んだ。
「長谷川!」
遼太郎はゼミ室を出ると、すぐに陽菜の背中に向かってその名を呼んだ。陽菜はチラリと振り向いて、遼太郎が追いかけてきていることを確かめた途端に走り出した。
「……!?」
遼太郎は反射的に陽菜を追いかけた。ここで見失ってしまうと、次はいつ出会えるか分からない。
足の速い遼太郎はすぐに陽菜に追いついて、階段の踊り場のところでその腕を捕まえた。今まで手さえも繋いでくれなかったのに、いきなり遼太郎にそんなことをされて、陽菜はビクッと反応してしまう。
遼太郎はそのまま陽菜を踊り場の壁際に追い詰めてからその手を離し、向かい合った。
「……どうして、逃げるんだ?」
遼太郎から問われて、陽菜はその目も合わせずに答える。
「狩野さんとは、何も話すことなんてないから。」
と言いながら、その場を立ち去ろうとする陽菜の行く手を、遼太郎はすかさず壁に手をついて妨げた。けれども、努めて冷静に陽菜とは話をするつもりだった。
「俺は、話したいことがあるんだけど。」
「……この前、一緒にご飯を食べたとき、先生と二人でしらじらしい嘘をついてたことの、言い訳でもするつもりですか。」
しかし、陽菜のこの言い草を聞いて、遼太郎もカチンときてしまう。
「言い訳じゃない。説明だ。」
「言い訳されても、説明されても、私には関係ないことですから。」
「関係ない……?」
遼太郎は眉間に皺を寄せて、陽菜の言葉を聞き直した。誠意をもって話をしようとしているのに、取りつく島もない陽菜の態度がますます癇に障る。
「何を話して、私を納得させようとしているのか知りませんけど。私の気持ちは、狩野さんには操作できません。誰が何と言おうと、私の気持ちは私だけのものです。どんなことが起ころうとも、私が狩野さんを好きだということは変わらない。私の命よりも大事な気持ちなんです。」
陽菜は遼太郎のことを好きだと言いながら、まるで恨みでもあるように、鋭い目つきで遼太郎を睨んだ。そんな陽菜に、遼太郎は言葉をなくしてしまう。
それは、遼太郎の知らない陽菜だった。いつもニコニコと笑顔を振りまいて、遼太郎のために動いてくれていたのがウソのようだ。でも、これも陽菜の一面。いや、これが陽菜の本性なのだろう。
こんなに頑なで自分本位な陽菜には、何を言っても無駄だと思った。みのりは陽菜の心を察してとても心配しているけれど、言葉を尽くして説明する意味なんてないと思った。
そう思ってしまった瞬間に、遼太郎の中の何かがプッツリと切れてしまった。遼太郎を形作っている優しさというものが、煙のように消えてなくなり、〝後輩〟に対する思いやりもなくなった。
「……じゃ、勝手にしろ。」
低い声で短くそう言うと、壁についていた手を引っ込めて、背中を向けた。階段を上っていく遼太郎の足音からも怒りがにじみ出ているようで、陽菜にとっても、そんな態度の遼太郎は初めてだった。
でも、陽菜は唇を噛みしめても、決して泣かなかった。
「絶対に、諦めない。最後は絶対に、狩野さんは私のものになるんだから。」
遼太郎のいなくなった宙を見つめながら、呪いのような誓いを立てた。
陽菜のことは、遼太郎の心に少し引っかかるものではあったが、そう大して気にすることでもなかった。陽菜の方もやはり故意に遼太郎を避けているのか、それからというもの、その姿を目にすることはなかった。
遼太郎にとって陽菜は、所詮ただの後輩。会わなくなれば、自然とその意識の中から消えてなくなる。
陽菜のことはおろか他のことは何も考えられなくなるくらい、遼太郎の頭の中を占拠していたのはみのりの存在。よほど神経を集中してない限り、みのりのことが浮かんできて遼太郎のすべてを甘く満たしていく。
こんなふうに恋愛に冒されているような状態は、遼太郎自身も自分らしくないとは思う。けれども、みのりがもたらしてくれた圧倒的な感覚は、時を問わず遼太郎の中に押し寄せてきた。




