宿題の代償 4
「……遼太郎、お前。この秋休みにいろいろあったみたいだな。」
Tシャツから顔を出した遼太郎が、その言葉を聞き直すように佐山に視線を合わせた。
「その背中の引っかき傷……。ネコはそんなふうに左右対称に引っかいたりしないだろ?」
佐山のその指摘を受けて、その意味を理解した途端、遼太郎の顔は火がついたみたいに真っ赤になった。なんと言って、言い繕えばいいのか分からず、固まってしまう。
「陽菜ちゃんと〝デート〟みたいなことしてることはうすうす知ってたけど、もうそんな関係になってたとは、……知らなかったぜ。」
〝陽菜〟という名前を聞いて、表情が険しくなった樫原も、問い質すように遼太郎を見つめる。
同時に遼太郎も、その〝陽菜〟という名前に敏感に反応して、硬直を解いた。
「……違う!これは、長谷川じゃない。」
赤面したまま激しく首を左右に振って、佐山の変な勘繰りを即座に否定した。
「じゃ、相手は誰なの?」
樫原の口を衝いて、その質問が飛び出してくる。普段、女の子と関わりを持とうとしない遼太郎だったから、まるで見当がつかず、その疑問は当然のものだった。
「高校の時に付き合ってた人が、会いに来てくれたんだ。」
そのことを告白する遼太郎の表情は、佐山も樫原も初めて見るものだった。思いつめたような切ない顔。それは、遼太郎がみのりを恋しく想う心を、そのまま投影していた。
「それは……、前に言ってた、『ずっと好きだった人』か……?」
「……うん。」
神妙になった佐山の問いに、遼太郎も素直にうなずいた。
「そっか。想いが叶って、よかったな……。」
佐山は、遼太郎の胸に秘められたその想いの深さを知っている。メガネの奥の、佐山の目が優しく微笑んだ。
「『ずっと好きだった人』って……?」
その時、虚をつかれたような面持ちで、樫原が遼太郎に尋ねた。
何も知らなかった樫原に、遼太郎は向き直って改めて説明する。
「高三の時にずっと好きだった人で、卒業式の時に告白して、少しだけ付き合ったんだけど、俺がこっちに来る時に別れることになって……。でも、俺はその人のことしか考えられなくて、ずっと想い続けてて……。」
樫原はそれでようやく、本当の遼太郎のことを知った気がした。時折、遼太郎から感じ取っていた、言いようがなく物悲しい〝陰〟のようなもの。そんなふうに引きずるほど、〝その人〟は遼太郎にとって、大事な人だったということだ。
陽菜のことを牽制などするまでもなく、樫原が遼太郎を好きになる前から、遼太郎の心の中にはそんな人がすでに存在していたということだ。
樫原は、胸の奥がキュッと切なく痺れる感覚を伴いながら、その問いを発した。
「……どうして、そんなに好きだったその人と、別れたりしたの?」
遼太郎は、その時のことを思い出しながら大きく息を吸い込むと、もう一度樫原の目を見つめ返した。
「その人は、俺を〝自由〟にするためだって言ってた。俺が大学っていう新しい世界で、何にも捉われずに成長できるように、〝別れ〟が必要なんだって。」
それを聞いて、樫原も佐山も言葉を逸した。
単に嫌いになったり、気持ちが薄れたから別れたわけではない。遼太郎のためにその〝別れ〟を決断するとき、その人はどれほど遼太郎を想っていたのだろう。そして、そんな〝別れ〟を突きつけられた遼太郎は、どれほど辛かっただろう。
遼太郎の切なすぎる想いを共有して、友人二人はそれぞれにその想いを胸の中にしまい込んだ。
「相手の人も会いに来てくれたんだから、遼太郎と同じ気持ちだったんだろうな。」
佐山は切なさを噛みしめながら、また微笑んで遼太郎へと言葉をかけた。
そう言ってもらえた遼太郎も、幸せそうに微笑みながら言葉を返す。
「……『私の方が我慢ができなくなった』って、言ってたよ。」
〝我慢ができなくなった〟その人は、遼太郎のもとへやって来て、彼に抱かれて想いを遂げたのだ。その想いの強さが、遼太郎の背中の傷にも表れている。そんなことを想像して、佐山の顔がほのかに赤くなった。
「おっと…!もうそんなふうにノロケられちゃ、たまんないな。」
佐山にそんなふうにからかわれても、遼太郎は幸せを否定せずに一緒になって笑ってみせた。そんな遼太郎を、樫原も自分の想いというフィルター越しに見つめる。
霧が取り払われたような晴れやかな遼太郎の表情。遼太郎にそんな表情をさせてあげられるのは、陽菜でもなく、ましてや自分でもなく、遼太郎がずっと想い続けていた〝その人〟だけ。
樫原は決意して笑顔を作ると、それを遼太郎へと向けた。
「狩野くん、よかったね。僕、狩野くんのために、ホントによかったと思うよ。」
樫原のその笑顔を見て、遼太郎と佐山の笑いの方は一瞬薄くなる。笑顔の裏にある樫原の葛藤を、遼太郎も佐山も知っている。それでも、そう言ってくれる樫原の思いやりが、遼太郎の胸にしみた。
「……ありがとう。」
遼太郎が改まってそう言いながら、樫原に微笑みかけると、樫原の笑顔も、今もまだ残る想いに少し切なくなる。
ちょうどその時、ゼミ室のドアが開いた。
「あっ……。」
『やあ、陽菜ちゃん!』といういつもの明るい挨拶は出てこず、佐山は思わず気まずそうな声を上げてしまう。




