初めてのあとで 5
白いワンピースを着て赤いカーディガンを肩に羽織っているみのりは、奇抜な格好をしているわけではないのに、店内にいる誰もが無意識に振り向いてしまうくらい特別な存在だった。なかでも、レジの近くにいた男は、彼女連れにも関わらず、遼太郎と同じようにみのりに見入ってしまっている。
だけど遼太郎は、もうこんな些細なことでヤキモチを焼かなかった。
――……あの髪に触れただけじゃない。先生の全部にキスをした……。
男が視線を動かせないみのりの手元や胸のあたりだけでなく、うなじや背中や足首にも全部。目で見るだけでは分からないその滑らかさや柔らかさが、遼太郎の手のひらに唇に残っている。
「あっ…!!」
その時、みのりの声とともに、小銭が散らばるけたたましい音が鳴り響いた。音の正体は、みのりが手のひらに受け取りそこねて、床にぶちまけてしまったおつりだった。
遼太郎は我に返ってみのりに駆け寄り、一緒になって小銭を拾い始める。その遼太郎に気づいて、みのりがきまり悪そうにつぶやいた。
「私。また、やっちゃった。」
それを聞いて、遼太郎は優しく微笑む。これは、昔から変わらないみのりの一面。こんなみのりがとても愛しくて、遼太郎は小銭を拾いながら、込み上げてくる想いを噛みしめた。
「先生。大丈夫なんですか?ちゃんと芳野まで帰り着けますか?」
店を出て、最寄りの駅への道をゆっくりと歩きながら、遼太郎は冗談を含めて口を開いた。すると、みのりは心外そうに顔をしかめる。
「な…!当り前じゃないの。帰り着けるわよ!」
「ホントかな?搭乗口間違えたりしないでくださいね。」
「大丈夫だってば!ここまで来るのは大変だったけど、帰るのは簡単よ。」
ムキになるみのりが可愛くて、遼太郎はもっとみのりをいじってみようかとも思ったが、みのりの受け答えが気に留まった。
「そういえば、どうして先生は、俺の住所を知ってたんですか?まさか、俊次に聞いたとか?」
「ううん。俊次くんじゃなくて。……二俣くんに聞いたの。聞いたっていうか、メールで教えてくれて……。」
二俣の前で自分の心を吐露し、大泣きしてしまったことを思い出して、みのりはおのずとか細い声になった。
「ふっくんが……?」
「この前の夏休みに、学校へ会いに来てくれたのよ。」
きっとそのときに、自分のことについて話したに違いない。でも遼太郎は、二俣とみのりがどんな話をしたのか、聞き出す問いを発することができなかった。みのりの方も、そのときの細かいことを遼太郎に打ち明けることができず、黙り込んでしまう。
加えて、空港へ向かわねばならない時刻が迫っていることも、二人の間の空気を重くした。
みのりは何か明るい話題を持ち出したいと思ったけれど、何も思いつかず、逆に気がかりなことがひとつ頭の中に浮かび上がってくる。
「……陽菜ちゃんのことだけど。」
このことを言えば、遼太郎の心を曇らせることになるのは分かっていたけど、そのままにして帰るわけにもいかなかった。
案の定、遼太郎は微笑みも浮かべず、黙ったまま視線だけをみのりへ向けた。
「陽菜ちゃんとは、きちんと話をしておいてね。」
みのりから釘を刺されて、遼太郎はいっそう顔を曇らせて口を開いた。
「……さっきも言ったけど、長谷川とはなんでもないんです。俺のことを、いちいち報告しなきゃいけないような関係じゃないし。」
遼太郎が陽菜のことを、女性としてどのように思っているのか、これまでにどのような関係を築いてきたのか。そこまで聞き出すことは、みのりにはできなかったけれど、心に引っかかっていたことは、単に遼太郎がケジメを着けることではなかった。
「でも、陽菜ちゃんは『なんでもない』とは思ってないでしょう?遼ちゃんのことを『好き』って公言してるし、今はそうじゃないけど、そのうち本物の彼女になれるって信じてる。なのに、私たちは昨日陽菜ちゃんに嘘をつくようなことをしたでしょう?きちんと説明しなかったら、きっと彼女を傷つけることになるから。」
みのりに指摘されて、遼太郎はこれまでの陽菜の言動を思い返した。みのりの言う通り、陽菜は周囲の人に対してまるで〝彼女気取り〟だった。自分もつい昨日までは、〝宿題〟のために陽菜が側にいてもいいとさえ思っていた。
「それに……、後ろめたい気持ちを抱えながら……とか、誰かを裏切るようなことは、もうしたくないの。」
みのりがそう語るのを聞きながら、遼太郎はみのりの過去のことを思い出した。みのりが前に付き合っていた男と別れたのも、不倫をして相手の奥さんや子どもを裏切り続けることに耐えられなくなったからだ。
「……もちろん、どんな事情や障害があっても、遼ちゃんのことは好きよ。それだけは、なにがあっても変わらない。だけど、他人を裏切ったり傷つけたり、そうならないように、努力はしなければならないものだと思うの。」
聞き入るばかりで、何も答えない遼太郎へ、みのりは諭すように言葉を重ねて語りかけた。
遼太郎も黙って話を聞きながら、考えて思い至る。やはり、みのりと再会して状況が変化してしまったことを、陽菜に一度きちんと話をしておくべきのようだ。
「……分かりました。学校が始まったら、先生とのこと、長谷川に話をします。」
遼太郎がみのりの目をきちんと捉えて答えると、みのりは安心したようにかすかに笑みを浮かべて頷いた。




