遼太郎のアパート 4
お湯が沸いて、遼太郎がコーヒーを淹れ始めると、アパートの部屋中にコーヒーの匂いが漂った。無心でお湯を注いでいるように見える遼太郎を、みのりはローテーブルの側に座ったままジッと見守った。
ヤカンを持ち上げる腕、しっかりした肩、長く伸びた足。鍛えられてはいるけれども、現役でラグビーをしていた頃の厳つさはなくなり、その分スラリとした印象を受ける。
立ち上る湯気の中にある端整な遼太郎の横顔を見て、みのりはまたドキドキと胸を高鳴らせた。
――……遼ちゃんは、大人になった。
離れ離れになってからまだ二年と半分しか経っていないのに、遼太郎はとても努力をし自分を高めて、みのりが想像していた以上に立派な〝大人〟になっているのだろう。
それは、その顔つきを見れば分かる。目の前にいる遼太郎は、思わず見とれてしまうほど素敵な〝男性〟になっていた。
みのりの想像していた通り、きっと周りの女の子たちは遼太郎を放ってはおかなかったのだろう。彼女を作った遼太郎は、きっとあの腕でその彼女を抱きしめ、……みのりも知っているあのキスをその彼女と交わし、そしてきっとその先のことも……。
みのりの鳩尾が、切なさにキュッと絞られる。
けれども、それは大学生ならば当然のことだ。当のみのりも大学生の時にそんな経験を積んできたからこそ、遼太郎もそうするべきだと思って、あの時別れを選んだ。
だからこそ、今ここで長居をしてはいけない。明るい未来が拓けている遼太郎に、後ろを振り向かせて立ち止まらせてはならない。
子どもの頃の淡く純粋な恋の思い出――。遼太郎にとって自分は、そうなるべきなのだと、みのりは自分に言い聞かせた。
「お待たせしました。」
遼太郎はコーヒーが入ったマグカップを、みのりの前のローテーブルの上に置いた。
「ありがとう。」
みのりはそう応えながら、マグカップを手にすると一口コーヒーを飲んで、心に決める。このコーヒーがなくなったらこの部屋を出て、遼太郎の前から姿を消そうと。
コーヒーを飲むみのりを見て、遼太郎は肝心の話をしなければと思った。
だけど、今、それを切り出したら、楽しく会話をすることはできなくなる。いざとなると適当な言葉を見つけられず、頭の中が焦りでいっぱいになる。
言葉で伝えられないのならば、いっそのこと抱きしめてしまいたいとも思ったが、ニコニコと微笑みを浮かべて〝先生〟という仮面を被っているみのりに対して、元〝生徒〟の遼太郎は手を伸ばすことさえ出来なかった。
「俊次くんは、狩野くんと一緒で、とても努力家ね。ラグビーだけじゃなくて、勉強もとても頑張ってるのよ。」
遼太郎がためらっている間に、みのりの口からまた〝俊次〟のことが話題にのぼる。
「先生のおかげだって、家で聞いてます。」
「家じゃ、どんなふうなの?やっぱり、意地っ張りで口が悪い?」
真実をついているみのりの物言いに、思わず遼太郎は笑いを漏らしてしまう。
「家じゃ、確かに意地っ張りですけど、末っ子だから甘えん坊ですね。」
「あ、確かに。分かる分かる。俊次くんのツンツン言葉は、甘えたい裏返しなのよね。」
そう言いながらみのりも笑って、楽しそうな雰囲気を作ってくれている。
それからひとしきり、俊次の成績のこと俊次のラグビーのことと、みのりから振られる俊次の話題で会話は続いた。みのりのおしゃべりは確かに軽快なものだったけれど、遼太郎は心からそれを楽しめなかった。
こんなどうでもいいような俊次の話をしている限り、みのりは〝先生〟の領域から出てきてくれない。
「狩野くんは、高校生のときはラグビーを頑張ってたけど、今は何に頑張ってるの?サークルは?もう三年生だから、引退してるのかな?」
これも卒業生に対する、ありきたりな〝先生〟らしい質問だった。遼太郎はもどかしい思いを抱えながら、質問に答えるしかない。
「サークルは入学したての頃に入り損ねて、結局どこにも入らなかったんです。今頑張ってることは……。」
――いつも、先生にふさわしい大人になるために、頑張っています。
その答えが頭にはよぎったけれど、口から出てきた答えは違うものだった。
「……やっぱり、ゼミでの勉強と、就職活動……です。」
そう答えながら、自分の意気地のなさに遼太郎は落胆する。だけど、みのりの態度も表情も声色も、遼太郎が取りつく島もないほど、〝先生〟というシールドで完璧に覆い尽くされていた。
みのりは、質問に答えてくれる遼太郎を、ジッと見つめながら、しみじみと何度も頷いた。
「教職は?取ってないの?」
「一応、取ってます。来年、芳野高校に実習に行く予定にしてます。」
「そうなんだ!でも来年は、私はもう異動してるだろうから、芳野にはいないわね。」
ドキンと遼太郎の心臓が、一つ大きく脈打った。どんどんみのりが遠くなっていくような気がして、焦りがいっそう募っていく。
今日なんとかしなければ、もう〝次〟なんてない。再びこうやってみのりと話せる機会は、いつになるか分からない。
その心の内の焦りとは裏腹に、他愛のない話に時折笑って相づちを打つ遼太郎。
少し大人びて、でも高校生の頃と変わらず優しい遼太郎の表情を、みのりは自分の心に刻みつけた。
将来に対する打算もなく、何の見返りも求めず、ただただ純粋に心の底から好きだった人だ。こんなふうに人を好きになることなんて、もう二度ないだろう。
今でも、こうやって側にいるだけで想いはどんどん深まって、抑えきれなくなってくる。もうこれ以上ここにいては、〝先生〟ではいられなくなる。
マグカップのコーヒーを飲み干したみのりは、帰る決心をした。帰るといっても、まだ飛行機の時間までは半日以上もあるけれど、みのりは一刻も早くここを出て行かなければならなかった。




