遼太郎のアパート 3
一緒に歩いている。ただそれだけのことなのに、みのりの胸は張り裂けそうだった。堰を切って溢れてしまいそうな想いを押し留めるためにも、みのりはキュッと唇を噛んで、遼太郎の足元を見つめながら黙って歩いた。
遼太郎も、そんなみのりの様子に合わせているのか、それともその胸の中に抱えるものがあるのか、黙々と上り坂を踏みしめるばかりだ。
これでは、アパートの部屋の中で二人きりになると、きっともっと気まずい空気になって、遼太郎に気を遣わせてしまう。
――先生らしく、しなくっちゃ……!
ドアの鍵を開ける遼太郎の手元を見つめながら、みのりは自分に言い聞かせた。
遼太郎がドアを開けて、中へと招き入れられる。
すぐ背後に遼太郎の息遣いを感じた瞬間、みのりは弾かれるように反応して、急いで靴を脱ぎ、部屋の奥へと足を踏み入れた。
遼太郎の暮らす部屋――。
小さな部屋の片隅にはベッドがあって、勉強机があって……、光と匂いと、その全てを自分の中に刻みつけるように、深く息を吸い込んでから、みのりは口を開いた。
「やっぱり住む人が同じだからかな?芳野の狩野くんの部屋と、雰囲気が似てるね。」
「俺の部屋?」
部屋の片隅に大きなリュックサックを置きながら、遼太郎はみのりへと振り返る。
「私ね、今、俊次くんの担任してるの。それで、家庭訪問で、狩野くんの家にも行ったのよ。」
「ああ、そう言えば。俊次から聞いてます。」
「その時にね。『俊次くんの部屋を見せて』って言ったら、すごく片付いた部屋に案内されて。でも、実はそれは、狩野くんの部屋だったってわけ。」
自分の本当の心を押し隠すために、みのりの口からは次から次へと、止めどなく言葉が出てくる。そんなみのりに、遼太郎はニコリと笑いかけた。
「先生、立ったままじゃなくて、座ってください。」
「うん。」
みのりは言われるまま、部屋の真ん中に置かれたローテーブルの側に座った。
「でもね。私のこと騙そうとしてたの、すぐに分かったのよ?その部屋にオールブラックスの選手の小さなポスターが貼ってあったから。」
「ああ、ダン・カーターの?」
「そう、スタンドオフの選手でしょう?だから、ピンときたの。それで、その後に俊次くんの部屋を見たんだけど、案の定足の踏み場もないくらい、メチャクチャだったわ。」
「想像つきます。」
「だけど俊次くんは、ラグビー、すごく頑張ってるみたいね。入部する時こそ『兄ちゃんと比べられそうでイヤだ』って渋ってたけど、一年生の時からスタメンだもん。」
遼太郎は優しい微笑みを浮かべながら、相づちを打つだけなのに、みのりの方は言葉の洪水を止めることができなかった。遼太郎と二人きりになって緊張のあまり、ドキンドキンと心臓が激しく脈打って、何かしゃべっていないと、自分がどうにかなってしまいそうだった。
しかし、遼太郎が勉強机の椅子に腰掛けてスマホを取り出し、それを扱い始めると、みのりは言葉を潰えさせた。
スマホを見下ろしうつむく遼太郎を、見ているだけでこんなにも心が切なく震える。
けれども、この心の内を遼太郎には知られることなく、ここを立ち去りたかった。再会した遼太郎には、〝いい先生〟のままで別れたかった。
飛行機に乗る必要のなくなった遼太郎は、忘れてしまわないうちに予約の取り消しをしていた。
キャンセルの手続きが終わって遼太郎が顔をあげると、みのりはとっさに目を逸らして、部屋の中を見回しているふりをした。
「先生、なに飲みますか?」
ぎこちないみのりに向かって、遼太郎が声をかける。
「……お水以外に、何かあるの?」
ぎこちなさをごまかすように、みのりが冗談めかして返すと、遼太郎も面白そうに息を抜いた。
「ありますよ。先生の好きなカフェラテは無理だけど、コーヒーでいいですか?」
「コーヒーって、狩野くんが淹れるの?それとも、インスタント?」
「先生にインスタントなんて。ちゃんとしたコーヒーを、もちろん、俺が淹れるんです。」
それを聞いて、みのりは目を丸くする。
「ええっ?!狩野くんが!?ホントにできるの?」
「いつまでも俺を、高校生のままだと思ってもらっちゃ困ります。美味しいの、淹れてあげます。」
「そっか、もう子どもじゃないもんね。」
みのりが柔らかく微笑むと、遼太郎もそれを見て安心したようにキッチンに立った。
「と言っても、一杯ずつ淹れる市販のドリップパックですけど。」
おどけるように遼太郎がそう言うと、みのりは可笑しそうに声を立てて笑った。遼太郎もつられて、明るい笑顔になる。
みのりと一緒にいる時間は、いつもこんなふうに楽しかったことを、遼太郎は思い出した。
楽しい時間の合間、時折見せてくれるみのりの仕草や表情にキュンと心が痺れて、それはとてもかけがえのない時間となった。一緒にいる間は時の過ぎゆくのを忘れ、いつもあっという間にその時間は過ぎ去っていってしまっていた。
きっと今のこの時間も、あっという間に過ぎていってしまう。ぐずぐずしていると肝心なことを話せないまま、みのりは帰ってしまうかもしれない。
「先生は、今日帰るんですよね?何時の飛行機ですか?」
確かめるために、遼太郎は手を動かしながら、みのりに尋ねてみた。
「うん、飛行機は五時くらいだったかな?せっかく東京に来たんだから、いろいろ行きたいところもあるし。かと言って最終便だと、明日も仕事があるのに遅くなりすぎるし。」
「行きたいところって、どこですか?」
誰かと会うのでなければ、一緒に行くのも一つの手だと、遼太郎は思った。
「うーん、そうねぇ。上野の国立博物館は、何か企画展をやってるのかな?」
みのりの行動パターンがこんなふうに相変わらずなことにさえ、遼太郎は愛おしさを感じてしまう。
普通の会話の中の何気ないことの一つひとつから、みのりの日常が垣間見える。それは、遼太郎にとってとても大切なことだった。
けれども今、しなければならない話はこんなことではない。何としても、みのりがプロポーズされている結婚を阻止しなくてはならない。このままでは、自分は『狩野くん』という思い入れの強い〝生徒〟のまま、みのりにとってただの思い出となってしまう。




