遼太郎のアパート 2
みのりは陽菜のことを、遼太郎の〝彼女〟だと思い込んでいたようだ。その仲を壊さないためにも、今日以上の接触は避けようとするだろう。電話やメールで連絡をしても、きっと居所を教えてはくれない。
だったら、みのりの住む芳野へと先回りして、みのりのアパートの前で待っているしかない。もしみのりが引っ越しをしていたら、芳野高校へ行くつもりだった。ストーカーじみた行為だと思われてしまうかもしれないけれど、それでも構わないと遼太郎は思った。
とにかく今は、どんな手段を使ってもみのりに会って、二人きりで話をしなければならない。この次に帰省する正月まで待ってはいられなかった。今、行動しなければ、一生後悔してしまうかもしれない。
飛行機は、明日の午前中の便の予約が取れた。部屋の照明を点け、旅行用の大きなリュックサックを引っ張り出してくる。適当な洋服などを詰め込んで、簡単に明日の準備をする。
そうやってやるべきことを整えても、不安と焦りとが自分の中に充満して、遼太郎は落ち着かなかった。
こんな状態で、あと何日を過ごさなければならないのだろう……。シャワーを浴びて寝床に入っても、遼太郎はとうてい眠りに就けそうになかった。
遼太郎が浅い眠りのまどろみから覚めると、すでに明るくなっていた。でも辺りは静けさに包まれているので、まだ朝は早いらしい。
部屋の片隅に荷造りをしたリュックサックがある……。
どうやら、昨日みのりに再会したことは、夢ではなく現実に違いないようだ。
遼太郎は寝ていられなくて、すぐに起き上がった。とりあえず顔を洗って、簡単な朝食を作って食べる。食器の片付けをしてから、部屋の掃除をする。何も手につかなかった昨晩とは打って変わって、気持ちが逸って居ても立ってもいられず、体が勝手によく動いた。
何もするべきことがなくなって、時計を確かめてみても、まだ飛行機の時間までにはずいぶんある。
遼太郎は、リュックサックを担いで部屋の鍵を持った。この狭い部屋に閉じこもって、まんじりと時が過ぎるのを耐えているよりも、空港で待っている方がマシだと思った。
九月の朝のひんやりとした空気の中、遼太郎は戸締りをしてアパートの階段を降り、駅へと向かって歩き出す。
ここへ戻ってくる時には、みのりに拒絶されて失意の底に沈んでいるかもしれない……。
それでも、もう後には引けない。後戻りしても、待っているのは〝後悔〟だけだ。どんな結果が待っていても、今はただ、なりふり構わずに全力を尽くすしかない。遼太郎は、通勤や通学の人々が足早に行き交う坂道を下りながら、自分を奮い立たせた。
みのりを心に宿らせて見る街の風景は、何気なく見慣れたものなのに、いつもと違って見えた。朝の光は、こんなにもキラキラと輝いて、まばゆかっただろうか……。
そのまばゆい光の中のひとつの存在に、ふと目が止まった。
いつも遼太郎のまぶたの裏に映る、赤いカーディガンの像……。
道行く人の中のこちらに歩いてくる一人に、遼太郎の意識が集中する。息を呑んで、意気込んで踏みしめていた足も止まってしまう。
遼太郎と同じように大きなバッグを持って、赤いカーディガンを着るみのりは、坂を上りながらキョロキョロと辺りを見回していた。
泳がせていた視線が、坂の途中で立ちすくむ遼太郎とぶつかったとき、
「……あっ……!?」
と、みのりは思わず声を上げた。
みのりは、目を見張って驚いた顔のまま数秒固まった。ここでこんなふうに遼太郎に遭遇してしまうことは、想定していなかった。
だからといって逃げ出すわけにもいかず、みのりは気を取り直すように遼太郎に歩み寄ると、向かい合うように立ち止まった。
「先生……。なんでこんな所に?」
そう問いかけてくる遼太郎は、思いかげないものを見たかのような表情をしている。みのりは答えに窮しながらも、何気なさを装うのに必死だった。
「……いや、ちょっと……。散歩をしてたら道に迷って、駅がどっちか分かんなくなっちゃって……。」
口から出まかせの嘘が、しらじらしく聞こえてしまうのは分かっていたが、みのりはそう答えるしかなかった。
みのりはまさに、遼太郎が住むアパートを探していたところだった。
朝の早いうちに遼太郎のアパートを見つけて、遠くからそっと、遼太郎が出かけるのを見届けよう……。ただそれだけ、一目だけ遼太郎の姿を見たら帰ろうと思っていた。
二俣から教えてもらった遼太郎の住所はこの辺りのはずだが、建ち並ぶビルやマンション、どこを見ても同じに見える風景の中からそれを探すのは、容易なことではなかった。
しかし、みのりが見つけるまでもなく、遼太郎はここにいる。今、みのりの目の前に。
「か……、狩野くんは?この辺に住んでるの?」
きまりの悪さをごまかすように、みのりは分かり切っていることを遼太郎に問いかけてみる。
「……はい。」
遼太郎も気の利いたことを言えず、ただ短く返事をするだけだ。
そもそも朝の通勤時間、人通りの多いこんな往来で、立ち話なんてできる状況ではない。
……そもそも、遼太郎の姿を遠くから一目見るだけで、言葉は交わさないつもりだった。
「そう、それじゃ、これで。……元気でね。」
これ以上関わりを持ってしまうと、せっかく固めた決心が揺らいでしまう。
みのりは素っ気なくそう言うと、遼太郎の脇をすり抜けて歩き出した。早く遼太郎から遠ざかって、姿を消してしまいたかった。
遼太郎は呆気にとられたように、みのりの動きを黙って見ていたが、とっさにみのりの背中に向かって声をかけた。
「……先生!どこに行ってるんですか?駅なら、そっちじゃないですよ。」
「……!?」
反射的に、みのりは立ち止まった。ますますきまり悪くて、遼太郎へ振り返ることもできない。
遼太郎は小走りでみのりを追いかけて、その前へと回り込んだ。こんな思いがけないチャンスを、もう二度と無駄にしてはいけないと思った。
「先生。せっかくだから、俺んち、寄って行ってください。その後、駅まで送って行きますから。」
遼太郎から覗き込まれて、みのりはぎこちなく目を合わせた。
「……でも、狩野くん。出かけるところだったんでしょう?」
「大丈夫です。大した用じゃなかったし。」
切れ長の優しい目を見るたびに、みのりの胸はキュンと切なく鳴いてしまう。愛しい人からの言葉は、あれだけの苦痛を伴って固めていた決意も、あっけなく流し去っていく。
「それじゃ、ちょっとだけ……。」
みのりが小さく頷くと、遼太郎はその目をいっそう優しげに和ませた。
そして、もと来た道を歩き出す遼太郎の後について、みのりも再び坂を上り始めた。




