遼太郎のアパート 1
前もって予約していたホテルにたどり着き、そこの部屋に入って、みのりは無意識に携帯電話を確かめた。
……すると、遼太郎からの着信が五件ほどと、メールが一件送られて来ていた。雑踏の中、バッグに入れられていたためか、その着信音は全くみのりの耳に届いていなかった。
恐る恐る指を動かして、メールを開いてみる……。
『時間があれば、先生と二人きりで話がしたいです。』
その文面を読んだ途端、また想いが込み上げてきて、胸が張り裂けそうになる。
落ち着いていた涙がまた零れて落ちて、みのりは携帯を閉じ、両手で顔を覆ってベッドへ座り込んだ。目を閉じ唇を噛んで、切なく苦しい感情の波が通り過ぎて行ってくれるのを待つ。
遼太郎は、何を思ってこんなメールを送ってきたのだろう……。二人きりで何を話したいと言うのだろう……。
嫌いになったり、憎み合って別れたわけではない。遼太郎にもまだ想いが残っているのかもしれない。
もし今、遼太郎へと折り返しの連絡をしたならば、遼太郎はここまで駆け付けてきてくれるかもしれない。そして、二人きりになれるこの空間の中で、離れ離れになっていた時間など忘れて、抱きしめ合ってキスをして……。
みのりは顔を上げて、ベッドサイドの棚の上に携帯電話があることを確かめた。衝動のままに腕を伸ばそうとした瞬間に、みのりの理性がそれを食い止めた。
遼太郎に陽菜を裏切らせてはならない。遼太郎の側にいて、あんなに楽しそうに笑っている陽菜を、悲しませてはならない。
今日は少し不機嫌そうだった遼太郎も、きっと自分という〝邪魔者〟がいなければ、いつもは陽菜と楽しく過ごしているのだろう。
今の自分は、遼太郎の幸せに支障を与える不必要な存在だ。もう二度と遼太郎の前に姿を現してはならない。いつまでも、この叶わない想いを引きずっていてはいけない。
『好きでいることを止めちゃうと、きっとみのりちゃんがみのりちゃんでなくなっちゃうよ』
東京に来る前に愛が言っていたように、心の中から遼太郎への想いがなくなってしまうと、自分が自分でなくなってしまいそうだ。
……だけど、だからこそ、今の自分ではない新しい自分になれる。
新しい自分になるために……、どうしたら自分の中に深く刻まれたこの想いを、自分から切り離せるのだろう。
「……これから、私はどうすればいいの……?」
とめどなく流れて出てくる涙をぬぐいながら、みのりは呟く。考えても考えても答えは出てきてくれず、ついには何も考えられなくなる。
ベッドの上に仰向けになり、ランプがほのかに照らす天井を、ぼんやりとして見上げた。
さっきの店でつまづいたとき、支えてくれた遼太郎の腕の力強さが、まだみのりの体に残っている。
あの腕にもう一度、息ができないほど抱きしめてもらいたい。切ない声で『好きです』と囁いて、優しくて情熱的なキスをくれるのは、遼太郎しかいない。
こうやって、固めた決意も一瞬の後には揺らいでしまい、思考は悶々と行ったり来たりを繰りかえして、みのりは眠れなかった。
こんな状態では、朝になってもどこにも踏み出すことはできないだろう。現実に引き戻される朝になってしまうのが怖かった。
だけど、刻々と時は流れていく。夜が白々と明けて、ほのかな光がカーテンの隙間から漏れて、とうとう朝が来る。その頃、泣き疲れたみのりは、ぼんやりと思った。
――もう一度、遼ちゃんに会いに行こう……。
今はまだ、遼太郎に会いに行ける場所にいる。
遠くからでいい、一目でいいから彼の姿を確かめて、この目に焼き付けておこう。この想いをそっと彼に届けて、彼のことはもう〝思い出〟という箱の中に閉じ込めてしまおう。
決心が鈍るから、言葉は交わさない。ただ、遠くから一目だけ。それで、自分の中で〝けじめ〟をつけて、歩き出す方向を遼太郎のいない未来へ切り替えよう。
思い立ったみのりは、ベッドからようやく身を起こし、シャワーを浴びに浴室へと向かった。
眠れなかったのは、遼太郎も同じだった。
結局、みのりからは折り返しの電話もメールの返信もなかった。再びメールを送ってみようかとも思ったが、初めからみのりに会う気がないのならば、また〝無視〟されるだけだと思った。
一人で暮らすアパートの部屋に帰ってきても、遼太郎は落ち着くどころではなく、不安のあまり何も手につかなかった。
暗い部屋の中で明かりも灯さず、窓辺にたたずみ、そこから遠く見える高層ビルの赤い光を見つめるばかりだ。
――先生は本当に、結婚するつもりなんだろうか……。
みのりが結婚に対してどんなふうに考えているのか、プロポーズされた相手のことをどんなふうに思っているのか。そして、今の自分のことをどんなふうに思ってくれているのか……。
肝心なことは何ひとつみのりと話せないまま、ここへと帰ってきてしまった。
だけど、遼太郎はもう、大人の事情に振り回されるだけの〝子ども〟ではなかった。
焦って取り乱しても、何の解決にもならないことは分かっている。今の状況をきちんと捉える冷静さも持ち合わせていたし、逆境を打開する思考力も兼ね備えていた。
みのりはまだ、結婚することを決意してはいない。相手のことを愛していれば、すぐにでもプロポーズを受けているだろう。
『遼ちゃん……』
そう呼んでくれていた頃の感情が、もうみのりの中に存在しなくなっているのかもしれない。……それでも、まだできることはある。
この腕に抱きしめてキスを交わした時の感覚は、まだみのりの中にも残っているはずだ。教師と生徒という立場を超えて想い合えたことは、そんな簡単に消えてしまうことではないはずだ。
――先生を、取り戻す……!!
唇をキュッと噛みながら、決意を固め、遼太郎はスマホを取り出した。みのりへ連絡をするのではない。飛行機の予約をするためだった。




