夏合宿、恋模様 8
九月になると、間もなく単位認定のための試験が行われる。試験などはあまり意識せずにバンド活動に勤しむ佐山とは裏腹に、普段から真面目な遼太郎は、ここぞとばかりにいっそう勉強に勤しんだ。
遼太郎が教員資格のために取っている講義以外は、ほぼ同じ講義を履修している樫原は、いつも試験の時は遼太郎と一緒に対策を練っていたのだが…。
今年はその中に、陽菜がいた。学年が違っても同じ講義を取ることもあるし、昨年遼太郎たちが単位を取った講義に関しては、その試験の対策などを聞き出しているようだ。
合宿の一件以来、樫原と陽菜の間には大きなわだかまりがあった。お互い牽制し合っている非常に気まずい空気なのに、一緒にいる遼太郎は勉強に没頭していてそれに気づくことはない。
「……あ、私。次は講義が入っているんでした。もう行かなきゃ。…狩野さん、今日はアルバイト、ない日ですよね?」
ゼミ室の大きなテーブルから、陽菜がそう言っておもむろに立ち上がる。
「…ん?」
声をかけられたので、遼太郎はノートから目を上げないまま陽菜に答える。
「だったら、この後図書館に行きますか?」
「…うん。今日はまだ新聞読みに行ってないから。」
「じゃ、私も後で行くかもしれません。」
「…うん。」
遼太郎の最後の生返事を聞いて、陽菜はニッコリと微笑む。その笑顔のまま遼太郎の横顔へ視線を投げかけると、バッグを抱えてゼミ室を出て行った。
樫原と遼太郎が二人きりになっても、特段会話を交わすこともなく、遼太郎は勉強に没頭し静かな時間が流れていく。
しかし、先ほどの遼太郎と陽菜のやり取りを黙って聞いていた樫原は、勉強どころではなく、その頭の中には、ずっと心に引っかかっていた疑惑がさらに色濃くなって渦巻いていた。
「……さて、ちょっとひと段落したから、図書館にでも行ってくるよ。」
遼太郎がテーブルの上のものを片付けて、椅子から立ち上がって伸びをする。
それから、陽菜と同じようにゼミ室を出て行こうとする遼太郎を、樫原はずっと目で追って、
「………狩野くん!!」
思わず遼太郎を呼びとめた。
樫原の声の勢いに驚いて、遼太郎は目を丸くし、戸口のところで振り返る。
「どうした?樫原。」
何の含みもない遼太郎の目に見つめられて、樫原はその心の内を吐露するべきかためらったが、思い切って口を開いた。
「狩野くん。彼女と、付き合ってるの?」
「……彼女って、誰のこと?」
陽菜のことはまるで意識になかった遼太郎は、眉をしかめて樫原に訊き返した。
「陽菜ちゃんだよ。」
「長谷川と?!まさか…!一緒にいたら分かるだろ?付き合ってなんかないよ。」
と、樫原はその疑念を遼太郎に一蹴されたが、逆に側にいるともっと疑いたくなってくる。
先ほど側で聞いた、二人の〝あ・うん〟の呼吸のような会話は、プライベートを共有しているからこそ交わせるものだった。
「彼女とは付き合っちゃダメだよ!!」
「だから、付き合ってないよ。」
「付き合ってなくても、あの子を側に置いちゃダメだよ!!狩野くんが不幸になるよ!」
血相を変えたような口調で、そこまで樫原が言うのには、何か理由がある…。遼太郎は戸口から歩を戻して、きちんと向き直ると樫原を正面から見据えた。
「長谷川はただのゼミの後輩だ。どうしてそんなに、長谷川のことを気にするんだ?」
真剣な表情の遼太郎から、面と向かって問い質されると、樫原はグッと言葉を飲み込んだ。
端整な遼太郎の顔を見上げると、胸が苦しくなって、もう自分の心を隠しておけなくなる。
「……僕、好きなんだ……。」
その一言を聞いて、遼太郎の表情が固まり、目には疑問の色が浮かぶ。
「長谷川のことが…?」
首をひねりながら遼太郎が訊き返すと、樫原の顔は切なさを帯びて、泣きそうになる。
「…違うよ。僕は狩野くんのことが……。出会った時からずっと……。」
一瞬、遼太郎の息が止まる。
樫原が発した言葉の意味を考えながら、樫原の今にも泣き出しそうな顔を見つめた。
その樫原の言っている『好き』は、親友に対する信頼や愛着を示すものではない。樫原から〝そういう目〟で見られていることは、うすうす勘付いていた。
だからこそ、思いがけない告白を聞いたはずなのに、驚きさえも感じない。自分が比較的冷静なことに、遼太郎自身不思議な感覚を覚えていた。
ただ、「樫原から目を逸らしてはいけない――。」そう思った。それは、大切な親友に対する遼太郎の精一杯の誠意だった。
遼太郎は樫原を見つめたまま、そこにあった椅子を引いて、樫原の隣で向かい合うように座った。
でも、樫原から打ち明けられたことに対して、どんなふうに自分の気持ちを伝えたらいいのか、遼太郎には分からなかった。
すると、黙り込んでしまった遼太郎を見て、樫原の方が口を開く。
「…お、男の僕からこんなこと言われても、狩野くんは困っちゃうよね…。迷惑なのは解ってるよ。…だから、今まで言えなかったんだ…。」
樫原の言葉を聞いて、とっさに遼太郎の口を衝いて言葉が出てくる。
「別に、迷惑ではないよ。……男とか女とかいうのも、関係ない。」
そう言ってくれた遼太郎を、樫原はじっと見つめ返す。
自分の想いを受け入れてくれるような言葉だったけれども、遼太郎の表情には憂いが漂い、そこから希望を見出せそうになかった。
「…だけど、もし樫原が俺に『付き合ってほしい』って求めてるなら、……それには応えられない。」
言葉を選びながら、慎重に遼太郎が答えてくれるのを聞いて、樫原はますます切ない顔になる。
「…そ、そうだよね。狩野くんはストレートなんだよね…。でも、うん。その方がいいよ。」
樫原は震える声で、遼太郎に話しているよりも、自分自身に言い聞かせているようだった。
陽菜と違って自分の想いを押し付けるようなことはせず、遼太郎の心境を必死で思いやろうとしている樫原に、遼太郎は愛しささえ感じてしまう。
けれども、それは友達への親近感で、どう考えても〝恋愛感情〟ではない。
「樫原には感謝してるんだ。俺の大学生活が充実して楽しいのも、入学したばかりの頃、樫原が声をかけてきてくれて、親友になってくれたからだと思ってる。…これからもずっと親友でいてほしいんだけど、そういうの難しいのかな?」
真剣な表情で語りかけてくれる遼太郎を見て、樫原は『やっぱり好きだ』と思った。
本当は、〝親友〟ではなく〝恋人〟として側にいたい。だけど、その想いを押し通そうとすると、きっと遼太郎は離れて行ってしまうだろう。
「…ううん。難しくないよ。僕も、これからも狩野くんの親友でいたい。」
樫原は、遼太郎の言葉を受け入れるしかなかった。心は今まで以上に切なく痛むだろうけれども、これからも遼太郎の側にいるために、親友のままでいる道を選んだ。
安心したように柔らかく笑って、遼太郎が樫原に優しい顔を向けて立ち上がる。
樫原も笑顔を作って遼太郎がゼミ室を出て行くのを見送ると、一人でそっとにじみ出た涙を拭った。




