さまよう心 2
前もって約束していたこともあって、俊次の母親は、すぐに玄関口に出てきた。
俊次の母親は、当然のことながら、みのりの記憶にある遼太郎の母親その人だった。みのりを切なくさせるその目元に、笑みを漂わせて迎え入れてくれる。
庭を望む大きな窓のあるリビングに通されて、そこにあるソファーに腰かけながら、
「お夕食の時間に、申し訳ありません。」
ダイニングの方でお茶の準備をしてくれている母親に声をかけた。
「いいえ、先生の方がお忙しいのに、こちらの都合に合わせて頂いて、ありがとうございました。」
そう言いながら、母親はテーブルの上に麦茶を出し、みのりの斜向かいに腰を下ろした。
「俊次くんは、部活ですか?」
「ええ、そうなんです。そろそろ帰ってくるはずだと思いますけど。…ホント、部活ばかりで、勉強の方はすっかりで…。」
母親の優しい微笑みが苦くなる。それに釣られて、みのりも軽く息をもらした。
「それでも、入学当初は『どの部活もやらない』と俊次くんは言ってましたから、部活に打ち込んでくれるだけでも、学校生活は充実していると思います。」
「まあ。入学した時はそんなことを言ってたんですか…!そんな頃から、仲松先生には目にかけて頂いてたんですね。ありがとうございます。……確かに、勉強もしない上に、部活もしないでブラブラしているとなると、本当に救いようがありません…。」
「それに、最近は学習の習慣も、ずいぶん身に付いてきたように感じます。」
みのりがそう言って、俊次の頑張りをフォローしてあげると、母親は安心したような表情を見せた。
「家では相変わらず勉強をしているところは見たことがありませんが、仲松先生には朝早くからご指導いただいているみたいですね。」
「朝の個別指導は、去年もずっと行っていたので、私にとっては取り立てて特別なことをしているわけではないんですが…。」
「いえいえ、そこまでして下さる先生は、なかなかいらっしゃいません。…遼太郎の時といい、本当にお世話になっております。」
遼太郎の名前が出てきて、みのりの心臓がキュッと萎縮した。
覚悟はしていたことだけれども、みのりは何も言葉が返せず、ただ恐縮したような笑顔を作ってみせた。
「遼太郎も…、仲松先生の個別指導を受けるようになってから、スイッチが入ったというか…。法南大学に行けることになったのも、先生のおかげだと今でも思っています。」
母親にしてみたら、遼太郎にとってのみのりも、よく面倒を見てくれる〝いい先生〟という存在でしかないのだ。
教師と生徒の一線を越えてしまったことを知ったならば、きっとこんな評価はしてもらえないだろう…。
せり上がってくる暗い哀しみに、息が苦しくなる。唇が震えてしまうのを押し隠すように、みのりは〝いい先生〟を演じることに努めた。
「……遼太郎くんは……、あれだけ頑張っていましたから、大学でもしっかり学問を修めているんでしょうね。」
その言葉は、みのりの願いでもあった。
遼太郎が自分で夢を見つけて、それに向かって着実に前進していることを、事実として確認したかった。
それを確かめることができれば、あの時の〝別れ〟という自分の選択は正しかったのだと認めることができる。
「どうなんでしょう?遠く離れてますから、どんな生活をしているのかはよく分かりませんが、ゼミに入ってからは研究で日本各地に出かけて行ったり、3年生になってからはインターンシップっていうんですか?そういうのに申し込んで、就職活動も始めているみたいですね。…週末は相変わらず、ラグビーらしいですけどね。」
最後は母親もそう言って、遼太郎の相変わらずな一面に軽く笑いをもらす。それを聞いて、みのりは安心して、心の中の硬い氷が解けだすような感覚を覚えた。
「ラグビースクールのコーチをしているって、俊次くんから聞いています。卒業してもラグビーには関わっていってほしいって、江口先生もおっしゃってましたし、趣味だとしても高校時代に打ち込んだことが、これからも遼太郎くんを支えていってくれると思います。…俊次くんも、今からラグビーだけでなく勉強も頑張れば、遼太郎くん以上に成長できると思います。」
母親は吹き出すように、いっそう大きな笑いをもらした。
「…そ、そう、遼太郎じゃなく、今日は俊次のことですよね?……だけど、あの子が、頑張れますかね?それこそ、遼太郎ならともかく、あの子は体は大きいですけど甘えん坊ですし……。」
「大丈夫です。スタートは遼太郎くんより1年早いですし、俊次くんは遼太郎くんより意地っ張りですから。」
「アハハハ…、さすが先生、よく解ってらっしゃる。」
楽しそうに母親が笑うので、みのりも釣られて笑顔になった。遼太郎の母親は、明るくて笑顔の絶えない、本当に素敵な人だと思った。




