祇園祭の夜 9
唇を噛んで決意を固めると、思い切って口を開く。
「蓮見さんは何をとっても申し分のない方です。理由は私の方にあります。……蓮見さんとお見合いをする前から、もうずっと……好きな人がいるんです……。」
『好きな人』と蓮見に打ち明ける時、みのりの心に遼太郎が浮かび、思わず声が震えた。
みのりの返答は、蓮見が想定していた最悪のパターンに属していた。
それでもまだ諦めきれない蓮見は、みのりの事情を確かめようと、その手を離さずに自分を奮い立たせる。
「…みのりさんは、その方とお付き合いなさってるんですか?……結婚は、考えてないのですか?」
蓮見から問い質されて、みのりは自分の境遇にそぐわない自分の想いを再確認して、涙が込み上げてきた。
こんな涙を蓮見には見せたくはなかったが、鼻の奥がツンと痛くなって止めることができず、涙はポロポロとみのりの頬の上をこぼれ落ちた。
「結婚どころか、…付き合ったりしてはいけない人なんです…。でも…、これからもその人のことは忘れられないと思います。」
この告白とこの涙で、みのりが不毛で切ない恋をしていることを、蓮見は悟った。しかし、却ってそこに一縷の望みを見つけて、みのりとの未来を見出そうとする。
「……分かりました。みのりさんはその方を忘れなくても、想い続けててもかまいません。でも、みのりさんがその方と結婚できないのでしたら、…僕が一生あなたの側にいてはいけませんか?」
「何を……言ってるんですか?」
あまりにも度が過ぎた思いがけなさに、信じられないものを見るように、みのりは涙顔で蓮見を見上げた。
「あのお見合いから2年が経って…何の変化もないからか、周りから、またお見合いを勧められるようになりました。…それで、改めて自分の心と向き合って、気づいたんです。…他の人との結婚は考えられないと。僕には、みのりさんしかいないと…。」
この2年間、みのりは何度か蓮見からの着信を無視し、会って話をしたのもほんの数回だけだ。
それなのに、どうして蓮見の中には、こんなにも想いが育ってしまったのだろう…。
蓮見のような人間に、ここまで思ってもらえることは、とてもありがたいとは思う。けれどもみのりの心は、ほのかなときめきを感じる隙間もないほど、遼太郎の影で覆い尽くされていた。
「……だけど、私は、今のこんな気持ちでは、蓮見さんのお嫁さんにはなれません。」
みのりはそう言って、首を横に振ることしかできない。
泣きながら苦しそうな表情を見せるみのりを、蓮見も優しく切ない眼差しで見つめ続ける。
「解ってます。でも僕は、みのりさんと一緒にいられるためだったら、そんな気持ちも全て受け留めます。みのりさんが僕とのことを考えられるようになるまで……いつまでも、何年でも待ちます。」
蓮見の心からの言葉は、みのりの心に深い楔となって打ち付けられた。
この場をどうやって乗り切ればいいのか分からずに、思ってもみない言葉が、みのりの口を衝いて出てくる。
「……ダメです。そんな、バカなこと……。」
「僕はバカかもしれません。……でも、本気です。」
両手に込められた力と、真剣な眼。胸の鼓動がドキンドキンと激しく乱れるばかりで、みのりの心も体も固まってしまって動けない。
もう今のみのりには、この蓮見の想いを覆せるだけのものを、何も見いだせなかった。
しばらくの沈黙の後、みのりはやっとのことで言葉を絞り出す。
「……蓮見さんのお気持ちは、よく解りました…。でも、今は……、一人にさせてください。今日はここで、お別れさせてください……。」
蓮見も初めから、自分が望んでいた答えを、今日のみのりからもらえるとは思っていなかった。
懇願ともとれるみのりの申し出に頷いて、みのりの両手を解放する。おずおずと両手を引っ込め、お辞儀をしようとするみのりに、蓮見は望みをつなぐ言葉をかけた。
「……また、会いに来てもいいですか?」
その問いに、みのりは何も答えられず、首も振らなかった。考えるように少し動きを止めただけで、そのまま深々と頭を下げると、振り切るように背中を向けて走り出した。
その刹那に、みのりの結い上げた髪を飾っていた簪が、抜け落ちて、音を立てて道路に跳ねた。
「……あっ!…みのりさん!!」
それを拾い上げた蓮見が、みのりを呼び止める。
しかし、みのりは振り返らなかった。それはまるで〝決意〟でもあるかのように、脇目も振らずに走って、下駄の音が遠ざかり……、角を曲がって見えなくなった。
蓮見は手の中で輝きを放つ、簪にあしらわれたトンボ玉を見つめた。
彩られているのは、水の中に浮かぶ〝蓮〟の花――。
その簪と共に、切ない想いが発する心の痛みだけが、たたずむ蓮見に残された。




