祇園祭の夜 3
それから俊次は黙々と、みのりが職員室から持ってきてくれた日本史のプリントに取り掛かった。
しかし、俊次のシャープペンシルの動きはすぐに止まり、課題どころか授業もまじめに受けていないことは、すぐに露見する。
みのりはそれを責めるわけでも叱るわけでもなく、課題への取り組み方を根気強く付きっきりで指導した。
助言を続けるうちに、コツをつかんだ俊次は、少しずつ自分だけの力で問題プリントの空欄を埋めていき始める。その様子を、みのりは傍らでじっと見守り続けた。
こうやって同じように、遼太郎を励ました時のことを思い出す。
俊次の横顔を見つめていると、まるでそこに遼太郎がいて、個別指導をしていたあの時の毎朝の光景が甦ってくるようだ。
考え込む時、軽く唇を噛む遼太郎の癖。問題プリントを見つめる、遼太郎の真剣な眼差し。
隣り合った椅子に座っているだけで幸せだった。だけど、ずっと胸が高鳴って、苦しいくらいだった…。
あの個別指導を始めてから、遼太郎は目覚ましいほどの成長を見せてくれた。成績だけでなく、一人の人間としても……。
初めは、確かに生徒の中の一人に違いなかったのに、いつしか彼はみのりの一番大切な場所にいるたった一人の男性になった……。
「…先生?………みのりちゃん!」
突然かけられた俊次の声に驚いて、みのりはハッと我に返った。
「…どうしたんだよ?泣いてるじゃんか!?」
俊次から指摘されて初めて、みのりは自分の頬を伝う涙に気が付いた。
とっさに涙を手のひらで拭ったが、そうすることでごまかすことは出来ずに、説明する必要に駆られる。
「……前に、学校を辞めていった生徒のことを思い出してたら…。」
遼太郎のことを思い出していた…などと、本当のことを俊次に言えるはずもなく、みのりは取って付けたような言い訳をした。
すると、俊次はそれを訝るどころか、顔色を曇らせる。
「俺はそいつとは違う。学校辞めたりしないからな。」
その表情には、確固たる意志が現れていた。だからこそ、みのりに言われた通りに、素直にこうやって課題にも取り組んでいるのだろう。
「そうだね。それは、解ってるんだけど…。…プリント、終わった?」
みのりは気を取り直すように、プリントを覗き込む。一通り目を通して、その出来を確認すると、もう一度俊次に向き直った。
「あんまり部活に遅れるといけないから、今日はこれでおしまいよ。」
「…え?おしまい?」
意外そうに目を丸くして、俊次はみのりの言葉を反復する。
「今日は、ね。ロックの君がいないと、スクラム練習ができないでしょ?試合前だし、みんなに迷惑かけられないもんね。」
俊次は、心の中で「その通り」と同意しながら、黙ったままみのりの言葉を聞いた。
「でも、明日からも毎日少しずつやっていくのよ?あとの残りのプリントや、数学や英語の課題は、まだたくさん残ってるはずだからね。放課後、部活の時間を潰したくないのなら、朝早く登校してきなさい。」
「……ええっ!?朝、やるの?」
「私も早く来て付き合うから。私は数学や英語の指導はできないけど、一緒に取り組むことはできるはずよ?」
こうやってみのりから優しく語りかけられると、俊次は何も抗う言葉を言えなくなる。それどころか、この優しさが心に沁みて、また涙が込み上げてくる。
ただ、ここまでしてくれるみのりの気持ちに応えたいと思った。きちんと目に見える形で、結果を出したいと思った。
それから毎朝、渡り廊下には、みのりと俊次が一緒に勉強する姿が見られるようになった。
かつて、みのりと遼太郎が、毎朝個別指導をしていたように……。




