三人の男… 5
みのりは自分の周りに強固な鉄壁を作り、決してその中に伊納を踏み込ませようとはしなかった。
そんな気持ちでは、話しをしても楽しいわけもなく、美味しいはずの料理だって味わえない。
表面上はにこやかに、でも疲れるだけの苦痛な時間が重苦しく過ぎて行き、1時間と少しが経った頃、伊納が席を立った。
トイレにでも行ってくれたのかと、みのりはホッと張りつめていた緊張を少し解いた。そして時計を見て、もうそろそろ帰ってもいい頃だと、バックの中から財布を取り出す。
「それじゃ、そろそろ出ようか。」
戻ってきた伊納は、そう言うと椅子に座ることなく上着を手に取った。後に続いたみのりは、そのまま店の外に出てしまった伊納に、焦ったように声をかける。
「あの…、お会計は?」
「ああ、さっき払っておいたから。」
笑顔と共にサラッと言われた言葉に、みのりは舌打ちした。
――……しまった……!!
こんなことで、伊納に借りを作りたくない。それは、男と同じ仕事をして対等に働く、自立した女としての意地でもあった。
「いや、それはダメです。割り勘にしてください。」
みのりは伊納の目の前に回り込んで、はっきりとした口調で訴えた。
これに対して、伊納は困ったように肩をすくめる。
「そう言われても、いくら払ったか覚えてないよ。」
「だったら、適当でいいです。これ、一応納めてください。」
みのりは財布から五千円を取り出して伊納に渡そうとしたが、伊納はますます困ったように笑って両手を上げ、それを拒否した。
「それじゃ、こうしよう。この近くに知り合いのやってるパブがあるから、そこに行って、今度は仲松さんが奢ってよ。」
「………。」
本音を言えば、ここで解放してもらえるかと思っていたが、これでは帰るに帰られなくなってしまった。
しょうがなくみのりは、伊納に連れられて夜の街を歩き、落ち着いた感じの小さなアイリッシュ・パブに入った。
カウンターに向かう椅子の一つを引いて、伊納はみのりを座らせてくれる。こんな身のこなし一つをとっても、伊納の動きにはソツがなく、女性の気持ちを和らげる術を知っている。
「仲松さん、ここのマスターのカクテルは絶品だけど、やっぱり飲まない?」
みのりの隣に座ると、伊納は開口一番そう言った。
そう言われても、今日は絶対に飲まないと決めている。それでなくても伊納のペースに乗せられてしまいそうなのに、飲んでしまったらそれこそ危険極まりない。
みのりが申し訳ないような素振りを見せると、マスターの方が気を利かせてくれた。
「うちには美味しいコーヒーもありますが、お淹れしましょうか。お嬢さん。」
初老の紳士の優しい声に、みのりは思わず頷いてしまう。
「マスター、俺はいつもの。」
「ギネスですね。」
そのやり取りを聞いているみのりに、伊納が語りかける。
「ここは、この街ではめずらしく、ギネスビールが飲めるところなんだ。」
「ギネスって…?」
普段ほとんどお酒を飲まないみのりにとって、お酒の話は全く未知のことで、〝ギネス〟と言えば「ギネスブック」のことしか思い浮かばない。
「そう、ギネスブックの『ギネス』だよ。アイルランドのビール会社が出してた本なんだよ。」
「へぇ~、そうなんですか。」
伊納のうんちくに、みのりは素直に感心して相づちを打つ。
「今は、ギネス醸造所からは独立してますけどね。」
マスターがそう付け足しながら、その〝ギネスビール〟を伊納の前に置く。
伊納と二人きりにならずに済んだことに、みのりはいからせていた肩の力を少し抜いた。
「マスター、こちらは仲松さん。俺の同僚で、日本史の先生をやってるんだ。」
紹介されて、みのりも思わず、可憐な笑顔を見せる。
「どうぞ、よろしく。そうですか。歴史の先生。僕はあまり詳しくないので、いろいろ教えて頂きたいですね。」
布のフィルターで本格的なドリップコーヒーを淹れてくれながら、マスターは柔らかい物腰で気の利いたことを言ってくれる。
それから伊納も交えて、ひとしきり歴史の話に花が咲いた。
伊納の人格はさておいて、自分の好きなことに興味を持ってくれて、質問されることはとても楽しい。改めて、歴史の奥深さに触れてもらって感銘を受けてもらえると、本当に嬉しかった。
「俺は数学の教師で理系だから、高校の頃はホントに歴史って嫌いだったんだけど、こうやって仲松さんが話してくれたようなことを聞いたりしてると、すごく興味がわくし、この歳になってようやく面白いと思えるようになったよ。」
また伊納の、この満ち足りたような笑顔。整った顔が作るこの笑みで、こんなに心地いいことを言ってもらえると、さすがのみのりも思わずドキリとしてしまう。
でも、これは伊納が女性を落とす時の技術の一つなのだ。
ひたすら褒めて称えて、自尊心をくすぐって…、そうしておいて甘い言葉を囁けば、たいていの女性はイチコロなのだろう。
――アブナイ、アブナイ……。
みのりは心の中でそう思いながら、顔ではにこやかに笑ってみせた。




