愛しい想いと体の関係 16
風呂から上がってダイニングに向かい、先ほどテーブルの上に置きっぱなしだった年賀状を手に取る。
「兄ちゃん。」
その時、ソファに寝そべってテレビを見ていた俊次から、声をかけられた。
「…お疲れさん。」
遼太郎は俊次をねぎらいながら、改めてその姿を見て、我が弟のその大きさに舌を巻く。3人掛けのソファからも飛び出している16歳のその体は、高校に入学した時よりも優に二回りは大きくなっていた。
「あっ…!兄ちゃん、そこ。怪我してるじゃんか!」
と、俊次は起き上がりながら、自分の体の肘のところを指さした。
言われて、遼太郎もTシャツから覗いている自分の肘を見下ろすと、やはり擦り傷が出来ていた。
「そんな大きな傷、気が付かなかったのかよ?」
信じられないような顔をしている俊次は、その大きな体に似合わず、傷や痛みには弱いらしい。
遼太郎は救急箱の中から絆創膏を取り出して、傷口に手慣れた感じで貼り付けながら、小さく笑って息を抜いた。
「…ああ、そう言えば、兄ちゃん。仲松みのりちゃん、知ってるだろ?」
俊次のその言葉を聞いた瞬間、遼太郎の抜いたばかりの息が止まった。体も思考も硬直して、動けなくなる。
「……兄ちゃん?聞こえてる?」
遼太郎が返事をしないので、俊次が訝しそうな顔で覗き込んでくる。遼太郎は我に返って、心の動揺をごまかすように俊次に目を合わせた。
「…うん。ああ、知ってるよ。仲松先生の授業を受けてるのか?」
「いや、みのりちゃんは3年生の担任だから授業は受けてないけど、俺がラグビー部に入る時に……」
そう話しながら、俊次は冷蔵庫から牛乳を取り出して、それをパックごとぐびぐびと飲み干した。
「ラグビー部に入る時に…?」
大きく響く胸の鼓動を伴いながら、みのりの話の続きを促した。
「みのりちゃんに説得されて、ラグビー部に入ることになったんだよ。俺が試合に出る時には必ず応援に来てくれるって、約束してくれたし。」
遼太郎は相づちも打てずに唇が震え、それを隠すように唇を噛んだ。
みのりは俊次を自分の弟だと知って、気にかけてくれてるのだとしたら、この俊次とラグビーを通して、まだみのりと繋がっていられていると感じた。
「それに、もうずいぶん前のことだけど、みのりちゃん言ってたよ。『遼太郎くんは元気?』って。」
俊次を通して語られるみのりの言葉……。
それはあたかも、みのりがそこで微笑みながら尋ねてくれているように、遼太郎の耳には響いた。
そのみのりの言葉を、胸の奥に深くしまいこんで、遼太郎も訊かずにはいられなかった。
「…先生も、元気にしてるか?」
「うん、まあ。元気っていうか、3年部の先生だから忙しくしてるみたいだよ。」
2年前、自分たちのために一生懸命になってくれていたみのりの姿が、遼太郎の目に浮かぶ。
「兄ちゃんがラグビースクールのコーチしてるって言ったら、みのりちゃん、とても嬉しそうだったよ。」
「……そうか……。」
遼太郎はもうこれ以上、俊次の前で普通の自分でいられなくなった。ただ一言つぶやくと、年賀状を手に取って自分の部屋へと向かう。
自分の部屋のドアを開けて中へ入ると、体中が震えて立っていられなかった。力なくベッドへ座り込むと、膝に肘をついて両手で目を覆い…、
「……先生……。」
その一言を絞り出すと、目の奥から涙がにじみ出た。
あの春の日の別れから、必死になって押し止めていたみのりへの想いが、堰を切って一気に溢れ出してくる。この止まることのない大きな波を、どうやってやり過ごせばいいのか分からなかった。
狭い芳野の街を出て、大学に行ってたくさんの人間と出逢い、いろんな経験を重ねてきても、遼太郎のみのりを想う心だけは、あの日から少しも変わっていなかった。
逆に、あの日からみのりに一度も会っていないのに、その想いは日々積み重ねられ、もっと強く深いものになっていた。
荒れ狂うような想いの波を、自分では収めきれず、遼太郎は助けを求めるようにスマホを取り出した。
…そして、その中に保存してある写真を表示させる。
それは、みのりとのドライブの途中、菜の花畑で撮ったみのりの写真。
もちろん、消去してしまうことなんて出来なかったが、みのりと別れてしまってから、その想いを押し隠すために一度も見ることのなかった写真だった。
菜の花を手に、遼太郎の姿を確かめた時の微笑み――。
いつも心に浮かべるものよりも、もっと可憐で可愛らしい笑顔が、遼太郎の全身に沁みわたって、心が切なく震える。
「……先生が、好きだ……。」
どんなことがあっても、それは変わらない。
きっと、遼太郎がこの世で最後の一呼吸をするまで変わることはない。
こんなにも想いは募るのに、再びみのりのこんな笑顔を見られる時なんて来るのだろうか…?もう二度と、こんな幸せな時間を共有することなんてできないかもしれない…。
それを思うと、不安で押しつぶされそうになる。
遼太郎にとって、みのりが側にいない未来は、そこに踏み出すことさえ躊躇してしまうほど、あまりにも暗かった。
――…だけど、こんな俺のままじゃダメだと思って、先生は俺から離れていったんだ…。
不安に駆られるたびに、遼太郎はいつもみのりの意図を思い出して、自分を奮い立たせた。
――もっと、強くならないと…!!俺一人の力で、先生が望んでるように。先生の全てを、守れる人間になれるように…!
唇を噛みながらそう思い、また新たに切ない決意を自分の中で固める。
そして、うすら寒い部屋の中で、遼太郎はみのりの写真を見つめ続け…、なかなかその画面を閉じられないでいた。




