愛しい想いと体の関係 12
「…亀山先輩、こ、こんにちは」
佐山の暴言を何とかごまかそうと、樫原が道子に明るい声で挨拶する。
『どうせ私は、ブスよ。そんな分かりきってること、いちいち言わなくていいじゃない』
これまでの道子ならば、間違いなくそんな返答をしていたはずだ。しかし――、
「こんにちは」
絶対に佐山の言葉が耳に入っていたに違いないのに、道子はにこやかに挨拶を返した。その思ってもみない反応に、佐山も樫原も目が点になる。
「あのね、狩野くん。この前言ってたことだけど。」
そして、二人のことはまるで気にも留めず、道子は遼太郎と話し始める。それを見て、佐山と樫原は顔を見合わせた。
「…そ、それじゃ、狩野くん。僕たちは先に講義室に行ってるから…。」
遼太郎と道子の話の邪魔になっては…と、樫原が気を利かせる。遼太郎も「悪い…」と言った面持ちで、佐山と樫原に目配せした。
しかし、こんなことはいつものことで、これまでもキャンパス内で出会ってしまった時には、遼太郎の意思とは関係なく、道子は彼を連れ去ってしまっていた。
「ううん。気を遣わなくても大丈夫。私たち、もう付き合ってないから。」
「……………?!」
「…えっ!?」
道子のその言葉に、佐山と樫原だけではなく、当の遼太郎も目を丸くして道子を凝視する。
3人からじっと見つめられて、道子は自分が放った言葉について説明する必要に駆られた。
少し考えて口をキュッと引き結ぶと、思い切って口を開く。
「…もう、狩野くんを解放してあげようと思って…。初めから狩野くんは、私のことが好きで付き合ってるわけじゃないって解ってたし、私との想いを育てていこうって思ってるわけじゃないことも解ってたし。」
自分の心を見事に言い当てられて、遼太郎は何も道子に言葉が返せず、神妙な顔をして道子の細い目を見つめた。
「だから…、これ以上好きでもない女と付き合わせたりしたら、可哀想でしょ?だからもう、終わりにしましょ。」
道子は三人の中の遼太郎に向き直って、きちんと遼太郎の目を見上げてそう宣言した。
佐山と樫原は、いきなり目の前で始まった〝別れ話〟を、息を呑んで見守っている。
「……でも……!」
それまでの状況から、すんなりと了承するかに思えた遼太郎だったが、突然道子の提案に異を唱えた。
「…俺と別れたら、先輩はまた……。」
また道子が〝あんなこと〟を繰り返すのではないかと、遼太郎は心配の方が先に立った。
確かに道子の言うように、遼太郎は道子に対して特別な想いを抱いてはいなかったが、ただの友達とも言えない道子が身を落としてしまうのを、傍観してはいられなかった。
「…大丈夫よ、狩野くん。あの日、狩野くんに説教されて、私は目が覚めたの。…それに、こんな私のことを真剣に考えてくれる、狩野くんみたいな男の子もいるんだって分かったから。……私はもう、『あんなこと』は絶対にしない。」
道子は低く静かな声で、遼太郎を説得するように、道子はそう断言する。
その真剣な言葉と表情に、新しい自分に生まれ変わろうとしている道子の意志を、遼太郎は読み取った。
「……分かりました。先輩を、信じます。」
遼太郎は頷いて道子を見つめ返し、ほのかに微笑んだ。
しかし、その微笑みは、道子の心を安堵させるどころか、キュンと切なく疼かせる。もう、この微笑みを独り占めできなくなることが、とても寂しくなって…、決心が鈍りそうになる。
込み上げてくる涙を堪えながら、道子は勇気を出して切り出した。
「…最後に、一つお願いがあるの。」
「……?…何ですか?」
優しい微笑みを湛えたまま、遼太郎は背の低い道子を覗き込んだ。
「狩野くんは、どんな形であれ私にとって初めての『彼氏』だったの。…だから、抱きしめてとは言わないから……、ハグしてくれる?」
「……え?!」
道子からのお願いに、遼太郎は少し戸惑った。
もちろん、みのり以外の女性にそんなことをするのも抵抗がある。
遼太郎は、横で状況を見守っている佐山と樫原を一瞥した。
「……ここで、ですか…?」
それに、佐山と樫原の目の前でそんなことをするなんて、さすがにちょっと躊躇してしまう。
「だって、ただのハグよ?」
変に意識している遼太郎に対して、道子は敢えておどけるように明るく言った。
遼太郎は恥ずかしそうな表情を浮かべて、考える。
きちんと〝一人の女性〟として尊重された経験のない道子が、これから生きていく中で、自分がそうしてあげることは、とても大事なことのように思われた。
遼太郎はぎこちなく頷いて、道子へと腕を伸ばす。それから、小さな子どもを憐れみ慰めるように、そっと道子の肩を抱きしめた。
その遼太郎に包み込まれた、ほんの短い一瞬。道子は、本当の幸せを感じた。この一瞬を思い出せば、これからはこれを支えに生きていけると思った。
「……ありがとう。」
遼太郎の腕から抜け出た道子は、本当に生まれ変わったように、可憐ににっこりと微笑んだ。
そして、ゼミ室のまん中に置かれているテーブルの上にあったバッグを担ぐと、佐山と樫原の横をすり抜けてドアノブに手をかける。
「……待てよ!」
出て行こうとする道子にそう叫んだのは、遼太郎ではなく…、佐山だった。
道子だけでなく、遼太郎も樫原も驚いて目を見開き、佐山に視線が集まる。
「あんた…、今みたいな顔で、いつも笑ってなよ。そうすれば、十分、可愛いんだから。」
佐山を見つめる道子の目に、ジワリと涙が浮かんだ。
けれども、道子はそれきり…、遼太郎へは振り返ることなく、ゼミ室のドアを開けて出て行った。




