第四話 賢者現る
エウリュイアスが向かう先では。
レッセントルベリは困り果てていた。ついた溜息に、その様子が如実に表れている。
辺り一面を覆う霧に視界をやられ、部隊の進軍方向を見失ってしまった。索敵諜報班からの連絡にも事欠く状態で、むやみに進む愚かさを骨身に染みて分かっていた彼は、伝令長に対して、警戒を厳にした上で部隊を進めさせるよう命令を伝えた。
(だから嫌だったんだ。この季節に、なにを好き好んで戦場に身を置きたい奴がいるもんか。そんなのは、無鉄砲突撃馬鹿のアリュヘイアムズにやらせておけばいい。どうしてこの俺にそのお鉢が回ってくるのか、さっぱり理解できない。作戦本部の恨みを買った覚えはないのに。まあ、恩を売ったこともないけど)
昨年来、珍しく雪の少なかった冬。しばらくなりを潜めていた隣国アーガバンデが、例年雪で閉ざされ難攻不落になるサザン谷の砦を襲撃。早馬が雪で覆われた道を駆け、国境の街であるドーゼルに一報をもたらしてからは、七日を優に過ぎている。
さすがにもう間に合わないのでは? そうレッセントルベリは悲観的な推測をしているのだが、作戦本部が出した命令に否やを挟む事は出来ない。であるからこそこうしてサザン谷に向かって、救援の部隊を進ませるはめに陥っている。
こうしてレッセントルベリは、ため息を盛大に漏らしていた。
「隊長殿。部隊の士気に影響を与うることになりかねのうござる。もちっとこう、シャキッとなされませい」
「そうは言うけどさ、ガウンジージョ。その士気を気にすべき隊員が、ほぼすべて戦闘経験のない連中だというのはどういうわけなんだ? 元来輜重部隊所属なのにその輜重さえも持ってきてないし、武器は扱い慣れない剣のみときてるんだぞ、これじゃあなあ……」
(今回急遽集められ救援に向かう部隊として割り当てられたのが、予備隊とも言うべき寄せ集め。尚且つ後方勤務の連中ばかりときてる。その上、索敵諜報に長けたものがごくわずかしかいないじゃないか。これでどうやって砦の救出が成功すると踏んだのか? 踏んだのはどうやら、成功の二文字ではなく地雷だったみたいだ)
作戦本部には、菓子折りの一つでも届けておくべきだった。そう後悔しても既に遅し。今更ながら、自分の要領の悪さを痛感している、レッセントルベリだった。
(それにしても、この霧は深すぎる。なにかしら摩訶不思議な術でもかかっているようだ。そう思ってる者はこの隊の中に、果たしているんだろうか?)
副長のガウンジージョは無骨一辺倒、以前からレッセントルベリに従ってきた、元は大戦の経験がある古武者である。兵法や戦略には疎いが、得物である“ドゥーリンガの大斧”を振るうその姿は、ドーゼルを含む北部一帯で知らぬものはない。当人の気持ちは計り知れないが、まだ年若いこの士官にはもったいないくらいの豪傑だ。
「それもこれも、隊長殿の起こしきことによるもの故でござろうに。現状に異を唱えなさるよりも、これを機に、軍での復権を勝ち取りなされませい」
痛いところを突かれ、ぐうの音も出ない。
「分かってますよ、はいはい」
「はいは1回ですぞ、重ねますとよろしくな……」
などとやっている中ますます霧は濃くなり、どういった仕組みでか分からないが、方々で光が明滅するように瞬いている。これはもはや、誰の目からしても異常事態なのは明らかだ。
(うーん、これはまずいな。理由がわからなくて、隊員に動揺が広まりつつある。このままじゃあ助けに行くどころか、こっちが先に瓦解しかねない)
変わらずにだらけた態度を見せながら、心中穏やかならざるを隠してどう対処すべきか考えあぐねていたが、その時眼前で光が集まり出し、やがて光の扉らしきものが形作られた。
「隊長殿! 何事が起こりえているものか分かり申さぬが、このような摩訶不思議、危険なものではなかろうか? ここは拙者にお任せあって、疾くお逃げなされませい!」
ガウンジージョが間に入り、大きく腕を広げてレッセントルベリを背に庇ったが、得意の得物である“ドゥーリンガの大斧”は背に背負ったまま。
(こういう抜けたところがなんともいえないんだよなあ。萌えるっていうかね)
光の扉が静かに開き始めると、辺りには変わらず丸腰で仁王立ちのガウンジージョと、結局逃げるにはもったいないと踏んだものか、レッセントルベリ二人だけとなっていた。
開ききった扉の向こうには、なにやら店の中と思しき空間が見て取れる。その店はこじんまりとした佇まいに、かなり年季の入った内装に磨き込まれた板張りの床。奥にはカウンターがあり、このような状況ながらほのかに香ばしい匂いが漂ってくるが、不思議と違和感がない。
しばらく動けないでいたレッセントルベリとガウンジージョは、その扉から現れた者の声音に慄いた。まるで感じたことのない存在感であったり、透明感であったりしたものが相応しくないほどの青年、いや、少年のものだったからだ。しかもその口調は、老成しきった覚者のものでもあり、なお恐れ多い。
『閉じよ、闇夜の宝石』
いつものお優しい声音と違い『力』に満ちたお声は、澄んだ金剛石のように清冽でいて近寄りがたいものでした。ですが私は、そこにある心根の熱を知っていますのでへっちゃらです。
「すまぬ、ファランバよ。そなたの心所を騒がしゅうしたくはなかったのじゃが。許されよ、わしの径も細うなってしもうての。ララにもな、育っておると伝心を頼む」
エウリュイアス様はどこにともなく、そう仰られて頭をお下げになりました。そのお顔には、とても言い表せないほどの懐かしさと、哀しみが満ちておられて。私がまだお逢いするするよりもずっと前のお友達に対してでしょうか、深い深いお声に感ぜられるものでした。
「わしだけが、未だそなたらのおる地に行けずは罰じゃ。重い、紛うことなきすべての罪業のな。感ぜられし息吹が、近くにはけしてないことの無情よ……」
凍えるほどの心の中を、少しでも癒やして差し上げられたなら。私はそう思い上半身を上げてほんの少しだけ、エウリュイアス様に寄り添いました。起こした身には、サラサさんが繕ってくれた蒲公英色のビスチェに、身体が冷えないようにぴったりと合った長めの袖なしサッシュ・ブラウス。
鶏冠にちょこんと乗せた、キャノチェのリボンと同じ色合いの薄桜色です。
私のなけなしの勇気、エウリュイアス様には伝わるでしょうか。ですがいくら寄り添っても、変温動物でしかない蛇の私。こんな私ではやっぱり……と思いましたらこちらを向いてくださり、少しだけですが笑みを返してくださいました。私はもうそれだけで胸がいっぱいで。周りのことになど目も向くはずがありません。
それですから、エウリュイアス様と一緒にくぐり抜けた扉の先にいた人たちの、エウリュイアス様のような眉目秀麗なお方の横に大きな図体で服を着た、バジリスクの私を見て驚愕した様子は気にもなりませんでした。