第二話 賢者の使いは
店内では騎士様が、先に食事をされるようです。
女性騎士さんはリカリノと名乗り、席に戻ると香る湯気が立ち昇る、美味しそうな食事に手を付けることにしたようです。お昼時を少し外れた頃合いですから、お店の中は大変空いています。お客さんはリカリノさんと、『木漏れ日の賢者』と呼ばわれたエウリュイアス様だけ。とても静かな佇まいの中、リカリノさんが流麗に操るナイフとフォークの立てる音が、店内に規則正しく、静かに響きます。
メイン料理は、蒸し上げられた豚と羊肉のソーセージ。切り分けられた断面からは、ところどころに緑や赤の混ぜ物が見えます。臭み消しのハーブなのでしょう、香草独特の香味がほのかに漂い、とても食をそそるものになっています。付け合せのスクランブルエッグに新鮮な葉物野菜。玉葱スープも付いていて、表面がカリカリに焼かれたパンを、そのスープに浸してはお口に運びます。
リカリノさんが洗練されたマナーをもって、万遍なく食を進めた後、ほうっと満足げに息をつきました。そうしてお皿の上、スープカップに目をやって、深いところから静かに口を開きました。
「……ご馳走さまでした。このように滋味溢れ、温かくも心尽くしの食事をいただけたのはいつ以来だろう。わたくしの国ではこうしているうちにも、危急存亡の時が差し迫っている言うに。殿下にも同輩にも申し訳ない限りで……」
俯き加減のそのお顔。見目はとても美しいのに、戦場から直接このお店にやってこられたかのように、泥がところどころこびりつき、長い金髪の御髪も乱れてしまっています。よく見ると、腕や素肌のいたるところには刀傷でしょうか、赤く腫れ上がったり、瘡蓋になって痛々しい様子が。きっとリカリノさんの仰るお国のありようは、ここに流れる緩やかな時間のように、ゆっくりと食事を楽しむようなことも出来えない状態なのでしょう。
努めて静かに給仕をしていたサラサさんが、食後の飲み物は何が良いか優しく尋ねると、少し憂えたように眉根を寄せては頭を下げて後、エウリュイアス様を見やってから厨房に下がりました。それを受けて、席に戻って珈琲をすすっていたエウリュイアス様が、頭をかきながら立ち上がりました。
「サラサさんの言うとおりだ……ぼくもまだまだだな。ええと、リカリノさん。お話を伺う前に、僭越かもしれませんが提案があります。聞いてくださいますか?」
エウリュイアス様のお声は涼やかで柔らかく、童顔と言ってもよいそのお顔と相まって、とても微笑ましくも思えるものでした。しかしよくよく聞いていると、その声音の奥にはなにかしら、強い力が込められているのが分かります。抗いがたい魔力とでも言いましょうか、先を聞かずにはいられない魅力に溢れておいでです。
「はい、着座でのご無礼をお許しいただきまして、なんなりとご提示くださいませ。わたくしに否やはございません」
少し緊張気味のリカリノさんでしたが、席に浅く腰掛け、背筋を伸ばしたその姿はとても真摯な気持ちが表されていて、はたから見ていても、しごく自然体のように感じられるものでした。
「ありがとうございます。食後の飲み物がくる前にまず、そのお身体の傷や汚れを清めさせてください。けして他意はありません、そのままではリカリノさんのお具合によっては、差し障りがあるかもしれませんので。ほんの少しの間ですから、お身体に触れてもよろしいでしょうか?」
黒い、ひたすらに艶めく黒い髪をさらりとなびかせ、エウリュイアス様がそのお顔を少し傾けられました。見様によっては、いささか照れておられるように感ぜられます。心なしか肌に朱が差したように思えるのはなにも私だけではないようで、当のリカリノさんもはにかむように微笑みを返しました。
「このようなみすぼらしい身なりで参り大変失礼な上、そのようなお心遣いまでいただけるとは、身に余る光栄でございます。賢者様の言になんら抗ずべきものではなく、いかようにでもなすっていただいて結構でございます」
椅子に腰かけながら、静かに両目を閉じたリカリノさんは、微動だにせず胸を張った姿勢をとりました。そのリカリノさんの二の腕辺りにそっと愛おしげに触れられたエウリュイアス様は、もう片方の手を腰に付けた巾着袋にあてがい、閉じ紐をほどき中に手を入れられてから、お言葉を発せられました。静かに、緩やかに、ゆったりとした口調で紡がれるそのお言葉は、周囲の空気、温度までも変えるほど力が満ち満ちていました。
「アレイシア。その御力、少々借り受ける。すまぬな。……こにおわすはいと傷つき、心打ちひしがれし清らかな乙女なり。我が身、我が心を通じ癒しの御業を発せませ、悪しき穢れを拭い去り、その身に生じし傷痕を、跡形もなく消し去らん。『治癒光』……」
リカリノさんに触れたエウリュイアス様の手の平が、ほのかに色づき始めました。その色合いは、初めは淡い黄色味を帯びていましたが、やがて輝きを増していき白く、しまいには眩いほどの虹色に、店内を染め抜きました。
リカリノさんは、そのあまりにも神々しいばかりの癒しの光と、身を心中から暖め尽くす慈愛の力に驚き慄き、閉じていた双眸からとめどもなく涙を滴らせていました。次第次第にその輝き、力は、内に集まりリカリノさんの身体の中に、吸い込まれるようにして消えていきました。消え去る寸前、リカリノさんの様子が一変するのが分かりました。
「はあんっ、ふう~っ!? な、なんなの、この感じ……あん、だめっ!」
ほんの一瞬の事ながら、この上もなく身悶えをしてぐったりとするリカリノさん。呆けたようでいて、とても満足、と言うか、幸せの絶頂を噛みしめているかのようです。それを極力見て見ぬふりをしようとしているエウリュイアス様の、恥じらい赤らめたお顔がなんとも初々しく、ここに他のお客さんがいないのがなによりでした。
「すみません、リカリノさん! このようになるとは思いもしなかったもので……どこか呪い言葉に誤りがあったようで、その、本当に申し訳ありませんでした!」
すっかりそれまでのにじみ出るような威厳や、力に満ち溢れた態度が崩れさってしまったエウリュイアス様、そのお顔や仕草に応じた、まだ年若い少年のような慌てふためきようです。
「い、いえ、どうかお気になさらずに……ってお願い、こっちを見ないでくださいませ。このような恥ずかしい醜態をさらしてしまい……まことに穴でもあれば、隠れたきところです」
身にまとう鈍色の鎧をかき抱き、少しでも身体を小さくして、若い異性の目に入らないようにするリカリノさんが、あまりにも不憫に思えたものでしかたなく、私は身を起こしてリカリノさんの前に向かい、かばうように全身で包みました。
「ひゃんっ! い、いったいなんなの? え、へ、蛇……」
リカリノさんが、緩く巻きつけた私の胴体にしなだれかかってきたのが分かりました。ごめんなさい。そんなつもりはなかったのですが、気絶させてしまったようです。
湯気の立つ食後の珈琲を、お盆に乗せたサラサさんが静かに、優雅に近寄り、珈琲をテーブルの上に置きました。
「フィアーロさん、貴女はなにも悪くないと思います。木漏れ日様、呪い言葉にその為人を、込めてはいけないのではなかったですか?」
お可哀想なエウリュイアス様。お慰みして差し上げたいのはやまやまですが、私はしがない使い魔の蛇。今はただただ申し訳ない思いで、私の内で力なくされているリカリノさんの頬を、チロチロッと舐めてあげるしかできませんでした。
呪い言葉の使いようによっては、いとも簡単に人を操ることも、苛むことも出来うる証左ですね。