第一話 賢者の名は
Mentor。
元は古代叙事詩の一、「オデュッセイア」に登場する賢者Mentorのことで、王の息子を指導した。非常に優れた人物で人格者でもあったとされ、人生の教えを説き、道を指し示す者のことを、後にMentorと呼ぶようになった。良き指導者、良き理解者、良き支援者のことである。
カランコロン。コロンカラン。
「いらっしゃいませ。どうぞ空いている席にお座りください。ただいまお冷をお持ちいたします」
お店の木の扉が静かに引かれ、取り付けられている木鈴が、涼しげな音を立てて鳴りました。
ガチャガチャと音を立てながら、お客さんが入ってきました。どうやらお一人のようです。店員さんが声をかけています。その声はとても聞き取りやすく、透き通った、清らかな水を思い起こさせるものでした。
「あ、ああ、うむ」
お昼を少し回った今の時間。窓の外、目の前に立つ大きな、大きな樹の枝葉の隙間から、きらきらと下生えに光の筋が幾本も描かれていて。とても綺麗で、静謐な雰囲気を醸し出しています。お客さんはその景色に見惚れたのか、窓辺の席に腰を落ち着けました。
店員さんはお冷とメニューをお盆の上に乗せ、お客さんの方に向かいました。陽の光が眩しいのか、お客さんは目を細め、うっとりとする表情で外を眺めています。
「失礼します。お冷をお持ちいたしました。こちらは当店のメニューになります。ご注文が決まられましたら、そちらのベルをお鳴らしになるか、声をおかけ下さいませ」
言い終えて静かに頭を下げるその物腰に、お客さんがはっと息を飲むのが分かりました。それだけ店員さんの仕草や、声音が清廉だったからでしょう。
お客さんの座る窓辺の席から少し離れたカウンター席の一番奥には常連さんでしょうか、静かに琥珀色の飲み物を一口飲んではほうっと息を吐き、また一口ゆっくりと飲む。それを繰り返しています。見た目は若そうですが、とても落ち着いた雰囲気で周囲にすっかり溶け込んでいます。
先程のお客さんの他には、この若者以外にお客さんは見当たりません。とても静かな佇まいのお店です。
ちりりん。ちりり。
小さく金属的な音色のベルが鳴りました。お客さんがお呼びのようです。件の店員さんが、水の流れのように静かに、すうーっとお客さんの前で立ち止まりました。
「お待たせいたしました。ご注文はお決まりでしょうか?」
メニュー表を見つめていたお客さんが店員さんを見て、そして再びメニュー表に目を移して、指で指し示しました。
「このランチセット? というものと、それとこちらを頼む」
店員さんはメニュー表の指さされた先を覗き込むと、静かに頷きを返します。
「かしこまりました。こちらは、お食事が終わられてからでよろしいでしょうか?」
「ああ、それで構わない。すまぬ」
ただランチを食べに来たのとは、少し様子が違うようです。そのお客さんは、どうやらランチセットの後に頼んだものの方が本命のようです。ちらちらと辺りを見回し、警戒心を表に出す様子はまるで、捕食者に追われ必死に逃げ惑う小動物のようです。お客さんの格好に反してですが。
そのお客さんの格好はまるで、戦絵巻から抜け出たようなものでした。上下とも鈍色の鎧に、肩からは深い色合いが美しい、紫のマントを羽織っていました。今は横の椅子に掛けられていますが、とても仕立ての良いもののように見えます。
厨房の方から、お客さんに出す料理が出来上がったと声がかかりました。店員さんは流れるような動きで、お客さんに食事を運びます。先ほどから垣間見える店員さんの一連の所作は、ある種洗練された武芸の舞にも通じるものがあって、はたから見ていると、思わずため息が出てしまいそうです。見目もとても美しいので、よけいにそう感じられるのではないでしょうか。
「ありがとう。その、少々お尋ねしてもよろしいだろうか?」
お客さんが、食事をテーブルに置き終わる頃合いを見計らって店員さんに、もごもごと口ごもりながら問いかけました。店員さんは軽く首を傾げて(その仕草もとても可愛らしいものでした)、
「はい、なんでしょうか? 私でお答えできることがあれば」
そう、清らかな声音で答えます。お客さんは思い切った様子で、グイッと前のめりになりながら店員さんにこう言ったのです。
「此度応じてくださるは、もしや貴女様なので? いやその身のこなし、この世のものとも思えぬ麗しさ。瞳に映るは理知なる輝き、きっとさように違いない。貴女様がこの私のメン……」
そう問われた店員さんが困っているのが丸わかりです。とても細く、すんなりとした透き通る白い両手を、わたわたと否定を表すようにお客さんに振っています。その仕草もまた愛らしく、眉間に寄った皺さえ、少しもその美しさを損なうものにはなりません。
「あのう、失礼しますがこの人はお客さんのメンターじゃあないですよ? このお店の看板娘さんで、天使のように清らかで可愛いく、知性豊かで素敵なのには間違いはないですけど」
自慢げに、饒舌にそう言ったのは、一人カウンターでカップに口をつけていた若者でした。
「そ、そうであったか。これは失礼をした。いささか気が急いていたやもしれぬ。しかして、そう言う其方は何者じゃ? なぜに私の話に加わるのだ? 事と次第によっては容赦はせぬぞ」
そう言いながら、マントを掛けてあった椅子に置く、一振りの剣に手をかけました。その顔つきはとても落ち着いたものでしたが、深い青の瞳の奥に強い覚悟が見て取れます。
一方でその若者もまた、落ち着いた態度で立ちながら、前手で叉手をしていました。これは敵意がないことを意味しています。
「いいえ。貴女が、ええと騎士様でらっしゃいましょうか? 確かに話されていたことに興味を持ち、聞き耳を立ててしまいました。お謝りいたします、申し訳ありません」
そう言いゆっくりと腰を折りますが、けして目線は下げません。ややもすると反抗的な態度に思われがちなのに、その若者からは微塵もそのような感情を抱かせない、そんな不思議な印象を持たせる姿。相対したお客さん、若者の言うようにおそらく騎士なのでしょうか、感心したような表情でその若者のことを見つめめ返します。
「他意はありません。でも、どうやらぼくを探してこちらに来られたようでしたので、声をかけさせていただきました」
「っ! ま、まさか、其方が、いや貴方様がかの高名なる……しかし、かようにお若いとは思いもよらなんだ」
騎士姿の女性が驚愕の体からようやく脱し、座っていた椅子から立ち上がりその若者に正対しました。片膝をつきながら、両の手を胸の前で交差させます。
「良き指導者、良き理解者、良き支援者であらせられる『木漏れ日の賢者』、エウリュイアス様。どうか、どうか私を、いえ、我が主君をお導きいただけますよう」
目線を下げ、完全なる恭順の意を表すその騎士に、年の頃にそぐわない優しい眼差しで若者が答えました。
「確かにぼくがエウリュイアスです。こちらこそ、よくお出でくださいましたね。まずは、冷めないうちにランチをお食べになってください、ここの食事はとても美味しいですから! お話は、その後でゆっくりとお聞きしますので」
まだほのかに湯気を上げるランチセット。騎士は流れる金髪をかきあげながら、そのあまりにも美味しそうな料理を前に、思わず生唾を飲み込まずにはいられませんでした。
「サラサさん、ぼくもおかわりね。淹れたての珈琲を」