第二章 愚者と高嶺の花子さん chapter 2 仕方ないって何だそれ
「瑠奈のお友達なら是非ウチに来てほしい、歓迎するよ!」
とても嬉しそうなお義兄さんのそんなお言葉に甘えて、僕は生まれて初めてリムジンに乗って、生まれて初めて女の子の家に招待されることになった。
瑠奈のお義兄さんの粋な計らいに僕は心の中でガッツポーズをする。
将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。
お義兄さん公認の仲になってしまえば、これはもう勝ったも同然なのではないだろうか。
そんな浮かれ気分で興奮気味な僕とは対照的に、瑠奈は心の底から嫌そうに僕の隣に座っていた。
……そんなに嫌そうに距離を開けられるといくら僕でも傷ついちゃうぞっ。
隣に座る彼女に先ほどまで感じた拒絶や否定そして悲嘆は不自然なくらいに見当たらない。
彼女がその感情を意図的に隠しているのか、それともほかの理由があるのか、愚者である僕には想像もつかない。
だがそれでも、彼女にとって兄という存在がいかに大きいかだけは何となく理解できた。
「(……災葉くん、お兄様に何か余計なことを言ってみなさい。その場でアナタをぺしゃんこにしてあげるから)」
助手席に座るお兄様には聞こえない小声で物騒なことを耳打ちする瑠奈。
取り繕ったようなニコニコ顔から見え隠れする殺気から、流石の僕も色々な事を察した。
どうやら瑠奈は兄の前では優等生の妹を演じているらしい。少々きつめの言葉遣いも封印し、どこかしおらしげですらある。当然、僕があの夜見たようなことをカミングアウトしようものなら、今度こそ口封じされそうな勢いだ。
なるほど、ブラコンか。
「それにしても驚いたな。あの真面目で融通の効かない瑠奈がまさか男の子と一緒に学校をサボるなんてな」
「もうっ、お兄様。別に私と彼は、そういう関係では……」
からかうようなお義兄さんの言葉に、瑠奈は赤くした頬を膨らませて可愛らしく反論する。
実に仲睦まじい兄妹のやり取りだ。
僕としては仲が良すぎてちょっと面白くない。
「あはは、冗談だよ。けど、ありがとうな愚憐くん。妹の瑠奈と仲良くしてくれて。妹はこんな性格だから、昔から友達が少なくて、兄としてはいつも心配だったんだ」
「や、やめてくださいお兄様、こんなところで恥ずかしいです……」
そんな兄妹の心温まる生ぬるいやり取りを見ているうちに、リムジンは巨大なお屋敷へ侵入していった。
彼女の通っている神楽坂学園の校門よりも巨大な正門をくぐり、リムジンはさらに奥へ進んでいく。
……これあれだ。庭が広すぎて敷地内を車で移動しなきゃならないってお決まりのヤツだ。
窓の外、綺麗に手入れのされた西洋庭園のような広大な庭に呆然とする僕を乗せ、リムジンは門を超えて一〇分以上もの間走り続けた。
☆ ☆ ☆ ☆
人が十何人と並んで座れそうな縦長のテーブルに次々と運ばれてくる料理に、僕は完全に心を奪われていた。
少し早めの昼食をご馳走するよと言われ飛び出してきた見たこともないようなコース料理を前に、僕の理性は瞬く間に崩壊。
テーブルマナーも何もなくカチャカチャと食器を打ち鳴らしながら凄い勢いで料理にがっつくそんな僕を、対面に座る瑠奈が呆れたような目で見ている。
けどそんなことも気にならないくらい、運ばれてくる料理が美味しいから仕方がないよね!
「気に入ってもらえたようで何よりだよ。それにしても気持ちのいい食べっぷりだな……」
上座に座るお義兄さんは自らを聖道修羅と名乗った。
瑠奈と名字が違う理由は単純で、瑠奈にとって修羅は義理の兄にあたる存在なのだそうだ。
なんでも瑠奈が十四歳の頃に、身寄りの無かった彼女を聖道家が養子として引き取ったとか。
それ以来、僕は彼女を本当の妹のように愛しているだの、彼女は正真正銘我が聖道家の一員だだの、要約するとそんな内容の話をされた。そのあたりの事情にあまり興味もなく、とくに詮索する気もなかった僕はお義兄さんの話を話半分程度に聞き流しながら、夢中でナイフとフォークを動かす。美味い。
「ほへにひへもほほひへほひいはんのほふひはほんはひほほひひんはい?」
「ちょっと、災葉くん? お行儀が悪いわよ。全部飲み込んでから喋りなさいな。ほら、お米、ついてる。ちが、そこじゃないわ。……ああ、もう。ちょっとじっとしてて」
もぐもぐ口を動かしながら喋る僕を見てもどかしげにしていたと思ったら、瑠奈はいきなりテーブルに身を乗り出して、僕の頬へと手を伸ばし始めた。
小さい身体が災いしてなかなか届かないのか、うんと身を乗り出して前屈みになっているせいでブラウスと身体の間に隙間が生じ、微かな――けれどしっかりと膨らみのある胸元が微妙に見え隠れしている。僕は紳士的に瑠奈の胸から目を逸らそうとして、おしくも失敗。瞬きも惜しんで目を見開き胸元をしっかりと注視してしまっていた。
瑠奈の顔が、ふにふにしていそうな胸元が、さらに僕へと接近する。僕は変わらず、接近する胸元を注視する。心臓がうるさいくらいに鳴り響いているけど僕は構わず瞬きもせずに目が充血しそうな程じっと薄いふくらみのある胸元を凝視してあとちょっとで見えそ――
「はい、取れた。もういいわ」
僕のほっぺについていた米粒を指で取った瑠奈が満足げに言った。
――ハッ、しまった!? あまりに胸元に集中するあまり、ほっぺたのお米を女の子が取ってくれるという都市伝説級の素敵イベントを見逃してしまった、だとッ!?
絶望に沈む僕。しかし天は僕を見放さなかった。
瑠奈は僕の頬についていた米粒をそのまま口に運ぼうとして、そこでようやく僕の視線に気づいたらしい。自分の行動を冷静に思い返したのか、ボッ! と一気に頬を染めると、口に運びかけていた米粒を丁寧にナプキンに包んでそっぽを向いてしまう。
……なにソレ僕を殺しに来てるの?
こんな僕だって好きな女の子からそんな事をされれば照れたりだってするっていうのに、天然で僕の心を撃ち抜きに来やがった。
僕は急に味のしなくなった口の中のごはんを飲み込むと、先ほどのやり取りで痙攣するように脈打つ鼓動を誤魔化すように、改めて口を開いた。
「それにしても、どうしてお義兄さんのお家はこんなに大きいんだい? 料理も専用のコックが作ってるみたいだし、運転手やら執事やらが普通に控えてるし、ただの豪邸ってレベルじゃないと思うんだけど」
「……ああ、俺の家はちょっと特殊だからな。この大きな豪邸も、父の仕事の関係上俺たちの手に渡ったモノなんだ」
「というと、お義父さんのご職業に関係が? あ、もしかしてどっかの大企業の社長さんとか? 言われてみればお義兄さん、いい所のボンボンっぽいもんね!」
あえて答えをはぐらかすお義兄さんを、僕は空気を読まずに追求する。
すると瑠奈は僕を非難するように目を細めて、
「……災葉くん。アナタ、『聖道』って名を聞いて少しは察するところがあるんじゃないの?」
「え? うーん、言われてみればどっかで聞いた事があるような……あ、そういえば少し前の『主席神官』がそんな名前だったような……あれ? でも確か、その人って殺されて……」
瞬間、瑠奈の目つきが僅かに鋭くなるのを僕は見逃さなかった。
僕は瑠奈の自分は復讐者だという言葉を思い出しハッとする。もしかして、彼女は……。
「……いいんだ瑠奈。――ああ、そうだ。 俺の父は先代の『主席神官』だ。この家も、その時に頂いた貰い物だ。そして君も知っているように、俺の父も母ももうこの世にいない」
僕が思い出した内容を代弁するように語る聖道修羅。
そう、今から一年前。先代の『主席神官』聖道宗厳とその妻聖道聖羅は、神の代理人たる『主席神官』が一方的に国を治める現行の統治体制を疎む何者かによって、無残にもその身体をバラバラに切断され、細切れの肉片と化した悲惨な状態で見つかったと記憶している。
そして、そんな両親の無念の死を嘆き、新たな『主席神官』候補として奮起した優秀な『神官騎士』の息子がいることも世間では大きな話題になっていた。
そんな悲惨な事件の被害者である彼ら兄妹に、どれだけ無神経な質問をしてしまったのか、遅まきながらに僕はようやく自分の失態を理解した。
『主席神官』候補の一人であり既に現在『魔装騎士兵団』の長でもある聖道修羅は、知らずして無礼を働いた僕を怒るのでも責めるのでもなく、ただ一人の兄として振る舞った。
「だから俺にとっては瑠奈が唯一の家族であり、瑠奈にとっても俺が唯一の家族なんだ。愚憐くん、瑠奈はその役回りから他者から恐れられ、避けられている。いつだってこの子は孤独だ。それは仕方のないことだけど、でも、君のようにそんなこの子の傍に居てくれる人がいるというのは、俺にとっても瑠奈にとっても大きな救いだ。改めてお礼を言わせてくれ、ありがとう」
お義兄さんは席から立つと、道化である僕に向けて深々と頭を下げた。
その心からの感謝の念を、しかし僕はまっすぐに受け止める事ができない。
もちろん、先の僕の無神経な言葉に対する自責や後悔から来る感情が、その感謝を受け取る資格はないと主張しているのも確かだ。いくら空気を読まない愚かな道化だといえ、僕の感情はきちんと人間らしさを持っている。
だがそれ以上に、僕はその発言を受け入れたくなかった。
だから僕は、その言葉には応えずに思っていることだけを率直に告げた。
「……その点に関しては安心していいよ。誰に頼まれなくても、僕は瑠奈ちゃんの傍にいるから」
「そうか、それはとても嬉しく喜ばしいことだ。よかったな、瑠奈」
「……ええ、そうですね。お兄様」
兄の言葉に哀しげに答える瑠奈を見て、僕は少しだけテーブルの下の拳を強く握りしめる。
「……愚憐くん。俺は父の後を継いで『主席神官』になるつもりだ。瑠奈の為にも、己の正義を貫くためにも、これだけは絶対に譲れない。そして約束しよう。必ず全ての人々が安らかに暮らすことの出来る国を造ると。そして瑠奈も、そんな俺に協力してくれている」
お義兄さんが視線で瑠奈に先を促す。瑠奈はその顔に寂しげな微笑を湛えて頷き、
「ええ。私はお兄様の為、そして私自身の目的の為に、次の『救済神魔奉納演武祭』で優勝して立派な『神官騎士』になってみせます。――『主席神官』になられるお兄様を支える為にも」
瑠奈の答えに聖道修羅は満足げに微笑み頷くと、改めて僕の方へ視線を向けなおした。
その誰もが嫉妬するような端正な顔に、柔らかな慈愛の笑みを浮かべて、
「きっと俺たち兄妹でこの世界を正しく救って見せる。だからそれまでの間――瑠奈のことを、どうかよろしく頼むよ、災葉愚憐くん」
☆ ☆ ☆ ☆
お昼ご飯のお礼を告げて、僕は聖道邸を後にした。
「……全ての人が安らかに暮らす、ね」
結局僕は、聖道修羅の言葉に明確な返事をしなかった。
『嘆きの聖者』。
人を愛し、誰も彼もを救おうとする救済の英雄。咎人をも愛する嘆きの聖者は、神の齎した正義の使徒として世界を救う。神の認めし英雄、正義の味方。それがあの男の役回り。
どうしてだろう。あんなにも人の好さそうな笑みを浮かべるあの男を、僕はどうしても好きになれない。
あの男は、何の疑問も違和感も抱くことなく自分に与えられたその役回りと立ち位置を信じ、受け入れ、全うしている。その事に喜びすら感じているように見えた。
その思考放棄したような生き方が僕は理解できないのか?
……いや、そうじゃない。
僕だってほんの少し前までは彼と同じように深く考えることもなく、与えられた役回りとその立ち位置に抗うでもなく従うでもなくぼんやりと生きてきたハズだ。
そもそも僕は僕自身の個性が特別嫌いな訳ではない。どんな方法であれ誰かを笑顔にすることができる僕を僕は案外気に入っている。ただ、この役回りが『僕』という人間の人生を決めつけているという事実をこの歳になって痛感し、それが我慢ならなくなっただけだ。
『道化』であることが全てにおいて先回りして敗北や失敗の理由になってしまう事が。
いや……もっと端的に言うのなら、この『道化』のせいで瑠奈に嫌われてしまう事が嫌だ、我慢ならない。
僕は勝手に決めつけられた僕を理由に、僕という人間の結末全てを決めつけられる事が気に喰わないだけなのだ。
だから己の『設定表記証』の内容に、『役回り』に従って生きていく、という考えそのものを理解できない訳ではない。
だったらこの名状し難い嫌悪感は何なのだろう。
論理的に説明できるものでも、言語化できるようなものでもなかった。
ただ僕は僕である限り、未来永劫あの男と分かり合うことはきっとない。僕の魂がそう叫んでいるような、そんな確信ばかりがあった。
そして一つだけ、ハッキリと言い切れることもある。
「生憎、仕方ないで済ませられる程、僕は物分かりが良くはないんだよ。なにせ神様も認めるような愚者だからね。こればかりはどうしようもない」
そう。あの男の言い分を、僕は認めない。絶対に認めたくない。
なぜ瑠奈が孤独に苛まれ続けている現状を、是と出来るのか。僕にはそれが分からない。
思い出すのは別れ際に瑠奈が見せた、何かを諦めたような哀しい笑み。
彼女はきっと、救いを求めている。
『……災葉くん、アナタにはその……少しだけ、感謝、してなくも……ないわ』
『感謝? 僕に?』
『ええ、そ、そうよ。悪いかしら。確かにアナタには散々振り回されっぱなしで、正直もう二度とその顔を見たくないのだけど、でも……。何だかアナタとのお喋りは少しだけ楽しかった気がするの。本当に少しだけ、ね。だから……その……あの、あ――』
『はは、急にしおらしくなってどうしたんだい? お腹でも痛いの? 僕のこのゴッドハンドでお腹まぜまぜしてあげよっか?』
『……ねえ、災葉くん。このまま一緒に全てから逃げてしまいましょうか。私たちを縛る、この窮屈で息苦しい身勝手な世界の全てが届かない、どこか遠くへ』
『え、でじま!? 瑠奈ちゃんと一緒なら僕としては例え火の中水の中草の中森の中、土の中海の中瑠奈ちゃんのスカートからパンツの中までドンと来いって感じなんだけど!!?』
『ふふ、何を本気になってるのかしら。この愚か者は。ただの冗談よ。それじゃあ、またね。さようなら――』
口元に手を当て楽しげに笑う瑠奈。それは、『復讐』とか『目的』とか『神官騎士』とか、そういう難儀で重苦しいしがらみから解放された彼女の素の姿だったのかもしれない。
だからこそ、リムジンに乗る前、見送りに来てくれた瑠奈と交わしたそんな会話が、僕の耳にこびりついて離れないのだ。
『ああ、それじゃあまたね瑠奈ちゃん』
そしてドアが閉められる寸前に飛び込んできたあの言葉も。
『――ねえ、災葉くん。アナタ知ってるかしら。私ってね、実はとっても嘘つきなの』
どこか様子がおかしかった彼女が残したさよならが、本当にこれで全てが終わりであるかのように思えた。
「瑠奈ちゃん。僕は愚かだから、君が何に苦しんでいるのかなんて分からない。でも、それでも。君の願いを僕は間違えないよ」
これで終わりにはしない。僕がそれを認めないし許さない。
自身を『復讐鬼』で『人殺し』だと嘯く瑠奈。兄の為、そして目的の為にこそ『神官騎士』を目指すと語った瑠奈。殺された前『主席神官』の義父母の存在、英雄の兄、隠そうとしていた死体や、近頃連続している殺人事件との関連性。瑠奈を取り巻く環境は、挙げだせばキリがない程に混沌としている。
彼女が抱えている問題も、彼女の残した数々の意味深な言葉の意味も、何一つも分かっていないけれど。
それでも僕は誰かが決めた『道化』ではない、ありのままの『僕』自身を見ようとしてくれた瑠奈=ローリエを信じている。
「うん。やるべきことは何となく見えてきたかな」
僕は僕の願いをもう一度確認する。
誰かが押し付けた『道化』の言葉ではない。僕は嘘偽りない僕自身の言葉で僕の気持ちを彼女にぶつける。失敗も成功も、勝利にせよ敗北にせよ、それは僕自身が背負うべきものだ。僕自身の手で得るべき結末だ。僕であることを僕の結末の理由にしない為に、戦うのだ。
その為だったら、神様の決めた『設定』だろうが神様自身だろうが関係なく敵に回し反逆してやろうじゃないか。
その思いに、一ミリも揺らぎはない。
だって、こうして彼女と会話をしているだけで改めて突き付けられるのだ。
僕はやっぱり瑠奈=ローリエがどうしようもなく好きなのだということを。
……いい加減、停滞にも飽きてきた頃だろう。
そろそろ本格的に神様とやらへの反逆を始めてみようじゃないか。