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第一章 道化照らす月明り chapter3 それでも僕は君を笑わせたくて

 結局、僕が瑠奈から聞き出すことができたのは彼女の名前だけだった。


 彼女の抱える事情――どうして死体を運んでいたのか――についても、彼女の好きな食べ物や好きな色。趣味や特技。休日の家での過ごし方や将来の夢などは何一つとして知る事ができなかった。

 彼女という人間を、僕は知る事が出来なかった。

 自己紹介以降、俯いたままずっと口を噤んでいた瑠奈は、けれど最後の最後に絞り出すような小さな声に後悔を滲ませてこう言った。


『……明日、この近くにある廃工場に来て。そうしたら、アナタが知りたいことを話してあげるわ』


 そんなわけで、僕は学校をサボって彼女の言っていた廃工場を訪れていた。 

 時刻は午前十時。彼女から時間を指定されたわけでもない僕は、朝一で家を出て、フル充電された携帯端末の地図アプリ機能を使い、昨日彼女と偶然の再会を果たした閑静な住宅街のややはずれ、そこにひっそりと佇む廃工場を見つけ出していた。

 

 錆びれたパイプが葉脈のように敷地内を縫って走り、壁に立てかけられた廃材は朽ちてボロボロに欠けている。広大な敷地を有する廃工場は、かつてここで大勢の人間が働いていたことを言葉少なに教えてくれていた。


 廃工場内には静寂が満ち、人々の喧騒はおろか、生き物の気配さえ感じない。

 ひどく無機的で、人工的な虚無を感じる。耳が痛くなるような静寂だ。

 工場内には様々な機械が立ち並んではいるが、今となっては何を作っていたのかすら定かではなく、ただ時間の流れの無常さを僕に見せつけているようだった。


 どれだけ隆盛を誇ろうとも、物事には終わりが訪れる。

 それをこの世界に住む人々はみんな知っている。

 なにせ『設定表記証ステータスカード』には自分の死因と寿命までご丁寧に書かれているのだ。

 生まれた瞬間から動き出す死のカウントダウンを前に、人々はどう生きていけばいいのかを迷い、苦悩し、途方に暮れる。

 カードに書かれた内容を他者に教えることは禁忌とされている為、誰に相談することも出来ず、全てを自分一人で抱え込むしかないのだ。

  

 自分の死期を知りながらに精神を狂わせることなく日常を過ごせる人間など、それこそ最初から頭の狂っている僕のような道化くらいのものだろう。

 故に、人々は死の見えるこの世界に救いを求める。

 そして、そんな迷い悩む彼らを導くのも『設定表記証ステータスカード』であり、それこそが救済ヴィ・クワイザーによる救い。シンドゥー教の教義なのだとかなんとか。

 ――『決められている死期までを幸せに過ごしたいのなら何も考えず神の導に従うべし』と。


 酷いマッチポンプだと僕は思う。

 こんなのまるで、死の恐怖をチラつかせて人々から生きる力と考える力を奪い、自分だけを盲目的に信じさせるように神様自ら世界をそういう風に作りあげているみたいじゃないか。


 けれど僕以外の人は、誰もそんなことを考えたりはしないらしい。


 幼い僕が抱いたそんな疑問に、「やはりお前は愚者であるから、当たり前のことに馬鹿げた疑問を持つのだ」と、小学校の先生は何度も何度も工作用の木槌で僕を殴った。

 僕は廊下に立たされ、シンドゥー教の教義と救済神ヴィ・クワイザーを称える歌を、喉から血が出るまで唱え続けさせられたものだ。


 先生の愛の鞭もむなしく結局僕にはシンドゥー教の教えも、救済神のすばらしさもよく分からなかったけれど。

 皆が神様や教えを大切に思い、疑いなど抱く余地もなく『設定表記証ステータスカード』の記述に従って生きている、という事だけはその時に理解できた。


 と、そんな回想に浸っているうちに、なにやら大きなスペースに僕は辿り着いていた。

 潰れてしまう前は何か大きな機材が鎮座していたのだろう。バスケットコート二つ分程の広さのある空間には、今は視界を遮るもの一つ存在しておらず、一抹の虚無感すらも感じさせる。 

 そんなただっぴろいだけの空間の中央。何もないと思っていたコンクリの床の上に、一つの人影があった。

 床にうつ伏せに横たわる人影は、確かに人影ではあったけれど人ではない。

 好奇心の赴くままにソレに近づいた僕は、うつ伏せに倒れたソレを不用意に抱きかかえて起こしてみる。


「変なの。のっぺらぼうのマネキンだ」


 そう。倒れていた人影は、デパートなどの洋服売り場にあるような、マネキン人形であった。

 かなりリアルな身体の造形をしていて、まるで本物の人間で型を取って作った蝋人形のようだ。

 そのうえきちんとした洋服も着ておしゃれをしている。

 涼しげな清楚な肩出しワンピースのスカートにハイヒール、斜め掛けのバッグ。どうやら女のヒト(?)らしい。

 ただし顔の部分には目鼻口の凹凸さえなく、卵のようにツルツルとした球体になっていて、のっぺらぼうみたいで気味が悪い。

 ボディラインがやけにリアルで生々しい分、頭部の玩具のような造りがより異様な存在感を醸し出しているのだ。


 ……そう言えば、バラバラ殺人事件に関する噂話の中の一つに、血まみれのマネキンに纏わる話があったっけ。まあこのマネキンはバラバラでも血塗れでも無いけど。


「卵だけに気味が悪い、なんてね」


 僕は一人なのをいいことにくだらないことを呟きながら――いや、別に周りに人がいても平気で呟いてしまうけど――マネキンを眺めて腕組してうぬんと唸る。

 一人遊びが基本の僕にとって、このマネキンは何だか愉快な遊び相手になるような気がする。


「ふむ……」


 僕は瑠奈との約束もすっかり忘れて、夢中になってマネキンの関節をいじっては固定し様々なポーズを取らせていく。

 そして、


「――親子かめかめ派ァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアーーッッ!」 


 マネキンのマネ子ちゃんと二人揃って合わせた掌を前に突き出し突如として叫び始める僕。

 残念ながら僕の魔法は脆弱な変身魔法なので、掌からかめかめ派は出ない。


「……フューヂョン! ハァッッッ!!」


 カニのような横歩きから身体を横に反って、互いの親指とひとさし指を頭の上で重ねる僕とマネ子ちゃん。

 残念ながら僕の魔法は貧弱な変身魔法なので……うん? これうまくやればフューヂョンごっこできるんじゃ……?

 一通りやりたかった事を試してから、僕は首を傾げていた。


「……うーん、なんかしっくりこないなぁ……?」


 おかしい。友達が出来たら絶対にやりたかった『ドラゴンゼット』ごっこなのに、なんだかいまいち盛り上がりに欠ける。

『ドラゴンゼット』は男の教科書。女の子なマネ子ちゃんではやはり役柄に合わないか……。


「うん? 女の子……」


 その時、僕の中に悪魔的な発想が舞い降りた。

 超人気漫画雑誌、『週刊少年ジャンボ』において伝説のバトル漫画である『ドラゴンゼット』を男の教科書とするならば、それと対極をなすもう一つの男の教科書がかの雑誌には存在したという事を僕は知っていた。

 そう、今の僕達にならできるはずだ。あの男の夢とロマンの詰まった伝説のラブコメ漫画! 図書館で胸を躍らせながら読みふけったあの『虎ぶる』ごっこを!!!


「……わお」


 ぴらり、と。胸をどきわくさせながら僕はワンピースのスカートを捲り中を覗き込む、そして驚愕に打ち震えた。マネキンのくせに生意気にも黒のレースのショーツ、だと!?


 だがこんな直接的な手段にでるのは美しくない。

 パンチラは意図せず発生するからこそのパンチラなのであり、自らスカートを捲ることが許されるのは小学生まで。……まったく、小学生は最高だぜ!

 稲妻が走るような衝撃に身体を射抜かれながらも、僕は『虎ぶる』より受け継がれし伝統芸能、『らっきーすけべ』の再現に走る。


 体育座りをするマネ子ちゃんの足と足の間。蹴躓いて偶然にも秘密の花園へ顔面スライディング!!

 顔の表面がコンクリでがりがり削がれる痛みを代償に、視界いっぱいに黒のショーツが飛び込んでくる。


 ……やべえ、僕はついに究極の一人遊びを発明してしまったのかもしれない。

 どくどくと額から多量の血を流しながら、僕は想像の世界へと飛び立ち、さらにマネ子ちゃんとくんずほぐれつイチャイチャした。

 うっかり転んでマネ子ちゃんのたわわに実った胸へ顔面からダイブ!! うん。マネキンだから胸もめっちゃ硬いな!! でもなんか嬉しいし楽しいから問題ない!!

 僕は追加で鼻血を吹き出しながら、さらなるアタックを仕掛け続けた。

 よりエロティックによりフェチズムに、僕は僕の求める究極のらっきーすけべを追求し続ける。


 だが、僕はこの時に思い出すべきだったんだ。

 僕がなんのためにこの廃工場を訪れたのかを、彼女との大切な約束を。


「うーん、ショーツの食い込み具合が足りないなぁ……やはり服の中に入ったいたずらネズミが偶然ブラジャーの紐を嚙みちぎって、偶発的ノーブラワンピというのは外せないし……マネ子ちゃんの態勢をこうして、こう……」

「…………………………。アナタ、いったい何をやっているの……?」


 ぴょんと、部屋の入り口でいつもよりはねっけのある銀髪が揺れた。

 額に汗を流し、衣服にやや乱れがあるが、それが気にならないくらいの相変わらずの美人さんが顔を覗かせていることに僕はようやく気づく。 


 顔を恐怖に青ざめさせ本気で怯える瑠奈=ローリエと目がったあった時。


 僕は鼻血を流しながら黒のブラジャー片手に仰向けになり、顔面に重くのしかかるマネ子ちゃんのパンツに顔を埋めて、同時にマネ子ちゃんののっぺら顔が偶然にも僕の下半身を強襲している、という地獄のような絵面を完成させていたところだった。

 僕は相も変わらず鼻からドバドバと血を流しながら、爽やかな笑顔で瑠奈にこう話しかけた。


「やあ、瑠奈ちゃん。これはあれだよ。もしもの時に困らないよう、ここでマネ子ちゃんと本番のシュミレーションをして

「いっ、いいい今すぐ死になさいなこの最低変態男!」



☆ ☆ ☆ ☆



 僕より小さい子からこっぴどくお説教をされてしまった。

 ……初めての経験だけど、なんだか小さい子に上から目線で怒られるのって興奮するなと思いました。まる。


 瑠奈も学校をサボってここに来たのか、昨日と同じ夏服姿だった。

 ただいつもより衣服に乱れがある。いつも武装しているのか、腰には流麗なデザインのレイピアが吊るされていた。

 鞘も銀色をベースに紫に青系の清涼感ある色彩で統一されている。

 彼女が身に付けていると人を傷つける武器と言うより、その美しさをより際立たせる装飾品であるかのように思えるから不思議だ。


「まったく、こんなところで発情するだなんて、信じられないような変態ね。一度病院に行って頭の中身でも調べてもらったほうがいいのではないかしら。というかそもそも、アナタは私と会う約束をして此処へ来たハズよね? それがどうして到着早々こんな変態プレイを見せられなきゃならないの。もしかして見られて悦ぶタイプの人? ごめんなさい私そういうの無理です汚らわしい――」

「――妬いてるの?」


 早口言葉じみた瑠奈のお小言に差し込まれた僕の一言に、瑠奈の顔が爆発するように真っ赤に染まった。


「ななななっ、何がどうしてそうなるのかしらっ!?」

「いや、顔を赤くして早口で捲し立てるから、僕とマネ子ちゃんのプレイを見て怒ってるのかなって」

「あ、当たり前でしょ、こ、こんな破廉恥なの怒るに決まってるじゃない!」

「じゃあやっぱり焼きもちだ」

「なんでアナタに好意を抱いてる前提で話が進んでいるのよ!?」


 ポンと手を叩いて得心顔の僕の言葉にさらに顔を真っ赤にしてお怒りの様子の瑠奈ちゃん。

 そんなに怒ってばかりだと、カルシウム不足なんじゃないかと疑ってしまうぜ。

 ……ハッ、彼女の背が小学生レベルなのはまさか――


「――瑠奈ちゃん。こうなったら僕と毎日お風呂上りに牛乳を飲もうね。大丈夫、僕は君の味方だよ」

「? ……ええっと、一体どこから牛乳に話が飛躍したのか、全く思考回路が読めないわね、この子ってば」

「あ、でも僕はやっぱりこのままの君が好きだから、大きくならなくても全然もーまんたいだからね」

「ッ!? しゅっ……げほ、ごほっ、好きって、そんな馬鹿みたいなことぽんぽん言わないでちょうだいっ、――というかアナタ、それはひょっとしなくても胸のことを言っているわねそんなに死にたいのかしらそうなのね死にたいのねッ!?」


 顔を真っ赤にして怒っていたかと思ったら、柳眉を八の字に下げて困惑し、と思ったら羞恥に慌てて舌を噛んで、さらに真っ赤なリンゴちゃんみたいになって怒る瑠奈=ローリエ。

 ……なんだかクールで大人びた印象のあった彼女だけど、表情がコロコロ変わって面白い。

 年相応、もとい身体相応にまだまだ子供の部分もあるのかもしれない。

 瑠奈は、いつもよりボサボサの髪と、乱れの目立つ夏服をぺたぺた撫でつけて整えて心を落ち着かせながら、


「ぜえ、はぁ。……もうっ、人を馬鹿にして」

「あはは、馬鹿にされるのは僕の役目さ。瑠奈ちゃんは面白いことを言うなぁ」

「や、やっぱり馬鹿にしてるじゃない!」


 その後もこんな感じのやり取りがこのあと四、五分ほど続き、先に瑠奈ちゃんがギブアップ。

 僕としてはもっと面白おかしく楽しいお喋りをしていたかったのだけど、残念だ。


 瑠奈ちゃんは大きく息を吸って吐いてを何度か繰り返した後、今更その身に纏う空気を切り替えて、人を寄せ付けない冷たいオーラを醸し出し始める。

 そうしてまるで今までのやり取りなど最初から無かったかのように、改めて僕の顔を正面から冷たく射抜いた。


「……それで、どうしてアナタはこんな場所にノコノコとやって来たの?」


 どうやら真面目モードのようだ。意図して声色を変えている辺り本気だろう。


「え、どうしてって、やだな。瑠奈ちゃんが言ったんじゃないか。今日ここに来れば、瑠奈ちゃんの好きな食べ物や趣味や好きな僕のタイプを僕に教えてくれるって……!」

「そうね。確かに私はアナタに――って、ちょっと待って。私、一言もそんなこと言ってないわよね?」


 僕の言葉に神妙な表情で頷きかけて――んん? と、瑠奈の顔が困惑に曇る。


「え、だって僕の知りたいことを話してくれるんでしょ?」

「昨日の今日で知りたいことがそれなのねっ!?」


 生憎、僕には真面目モードが搭載されていなかったみたいだ。

 僕みたいな道化にいいようにペースを乱されて、やや涙目で肩で息をする瑠奈を見ていると、なんだか申し訳ない気持ちになってくる。

 

 よし、僕だってこの役回り(キャラクター)に抗うって決めたんだ。

 彼女に合わせて、真面目に真面目な話を聞こう。僕は場の空気を切り替えるように、


「まあ、冗談はこのあたりにして。瑠奈ちゃん。さっきの質問はどういう意味なんだい? ここに来れば僕に色々教えてくれるって、そう言ったのは君だろう?」


 僕の質問に、瑠奈は大きなため息を吐いて、


「はぁ……。あのね、そんなの嘘に決まっているでしょう?」

「え?」


 突然の告白に困惑を浮かべる僕。

 そんな僕を蔑み嘲笑うかのように瑠奈は嗜虐的な笑みを浮かべると、僕を突き放すべくその語調を強めた。

 何だか女王サマっぽい。


「まだわからないの? だから、そもそもアレはあの場を逃れる為のその場しのぎの嘘だって言っているのよ。むしろあの状況でどうして私みたいな人間の言葉を信じれるわけ? 人の死体を遺棄しようとしてた女よ? 普通に考えて通報するでしょ。……それなのにアナタときたら警察に通報もせずそのまま馬鹿みたいに家に戻って寝てるし。朝になったらなったで、時間も決めていない集合場所に真っ先に向かおうとするし、アナタってほんっとうに役回り(キャラクター)以上のお馬鹿なのね。ここまで来ると呆れるのを通り越していっそ尊敬するわ」


 子供でも分かるような嘘に見事に騙されノコノコ廃工場へやって来た僕を、瑠奈は愚かと嘲笑う。

 いいように掌のうえで弄ばれた道化を馬鹿にするみたいに。


「じゃあ、そういう訳だから。私はアナタに何も教えないし、何も話さない。分かったらアナタも無駄足を踏まされたことに地団太でも踏みながらさっさと家に帰って――」


 けれども僕は瑠奈の言葉に目をぱちくりと瞬かせて首を傾げ、


「それじゃあなんで、嘘の集合場所に君は来ているんだい?」


 もっともな疑問を、瑠奈に投げかけた。


「そっ、それはっ。ま、間抜けなアナタが私の嘘に引っかかってるかどうかを確認しに……」

「だって君は、あの場から逃げるために。僕の追及を躱す為に嘘を吐いたんだろ? ならさっさとどこへでも逃げればいいじゃないか。どうしてわざわざ僕の様子を見に来て、そのうえ仲良くお喋りまでしているんだい? 僕は愚か者だから、どうして君がこんなことをするのか、分からないよ」


 瑠奈=ローリエは嘘を吐いたか否か。それはこの際どうでもいい。

 もし昨日の言葉が嘘なのだとしても、現に彼女はここにいるのだから。

 細かいことは気にしないに限る。


 今僕が分からないのは、彼女の真意だ。

 夜中に一人で死体を抱え、それを僕に目撃され、その場では事情を話すことを拒み、嘘の言葉でその場を逃れて、だというのにノコノコと嘘を信じてやってきた僕の目の前に彼女はノコノコとやってきた。

 どっちつかずで中途半端。

 彼女が何をしたいのか、僕にはそれが分からない。

 僕はいつもながらによく回る口を動かしながら、自分の考えを整理することにした。


「……うん、そうだね。多分君は、自分の嘘で僕が此処にやってきてしまうことを、昨日からずっと心配していたんだ。尾行なんて真似をしてしまうくらいに」

「な、なんで私がアナタの心配をしなければならないのかしら。というか、アナタを尾行なんかするわけないじゃない。なに、自意識過剰なの?」

「だって君は僕が昨日真っすぐ家に帰って眠ったことを知っていた。ここに朝一で来たのも知っていた。尾行していないならなんだって言うのさ。……けど、そうなると一つおかしい事がある。少なくとも朝から僕を尾行していたはずの君が今日はじめて僕に声を掛けたのは、僕が此処について一時間以上が経過してからだ。僕がマネ子さんと遊んでいる間、君は何をしていたんだい?」

「それは……あ、アナタ達が変なことをしているから出ていきづらく――じゃなくて……フン、馬鹿らしいっ。そもそも尾行なんてしてないって言ってるでしょ?」


 視線を逸らし、小さく縮こまって口元をごにょごにょとさせる瑠奈。

 だが、彼女が言い淀んだのは、僕とマネ子ちゃんのイチャイチャを思い出しての羞恥からではないだろう。

 だって、その言い訳はさすがに苦しいよ、瑠奈ちゃん。僕らは最初、『虎ぶる』ごっこじゃなくて『ドラゴンゼット』ごっこをしていたのだから。 

 なおも僕は、気になる点を列挙していく。愚者であるからこそ気になってしまう、どうでもいいようなことを一つ一つ言葉にしていく。


「それに、今日の君は何だかやけにボロボロだ。髪のセットも乱れ、制服にだって泥が跳ねている。ブラウスは汗が滲んでカワイイピンクの下着がスケスケ――おっとごめんごめん、そんなに睨まないでおくれ拳を握り締めるのも今は勘弁殴るのは後で――それで考えたんだけど、僕がマネ子さんと遊んでいる間、もしかして君は誰かと戦っていたんじゃないかい?」

「何を言うかと思えば私が戦っていたって? ……ふん、くだらない。あまりにも飛躍が過ぎるわね。少年漫画の読みすぎなんじゃないの? そうやって何でもかんでもバトルに結び付けるの、男の子とは言えその年齢になって流石にどうかと思うわ」 


 僕の突飛な言葉に思わず鼻を鳴らして失笑する瑠奈。

 でも彼女の目元はてんで笑っていない、今にも泣き出しそうな曇り空だ。だから僕は彼女の否定を意に介さずに言葉を続けた。


「……外に居るんだろ? 昨日の『目撃者』である僕を消しに来た『誰か』が。よくよく考えてみると、この廃工場は静かすぎる。住宅地のすぐ傍にあるのに、人の声一つ聞こえてこないなんて、明らかに何者かの手が入っている証拠だ。こんな人工的な静寂はさ、それこそ魔法でも使わないと作れないよ」


 彼女は昨日嘘をついた。

 けれどあれは自分が逃げる為じゃない。これ以上僕が彼女と関わり合いになるのを防ぐ為の、僕を守る為の嘘だったのではないだろうか。


 彼女が何に関わっているのかは知らない。けれどその『誰か』は昨日も瑠奈を見張っていた。

 だから瑠奈も、僕を安易に見逃がすことが出来なかった。

 彼女が僕を見逃せば『誰か』はすぐにでも口封じに動くだろう。それにもし僕を見逃せば、瑠奈自身が裏切り行為で危険な立場になるのを避けられない。

 そう判断した瑠奈は、見え見えの嘘をついて僕を廃工場に誘い込んだように見せかけ、『誰か』を欺きながらも僕を守ろうとしたのだ。


 けれど僕は愚かだから。彼女のついた嘘も、その真意にも気づく事が出来ずに、ノコノコと嘘の待ち合わせ場所に踏み込んでしまった。

 瑠奈の嘘を真に受けて、目撃者である僕を消すために『誰か』が待ち構えている廃工場内へ。

 愚者な僕が、彼女の優しさを台無しにしてしまったのだ。

 結果彼女は、僕を守る為にその『誰か』と戦った。

 身の裏切りが露呈することも厭わずに。


「瑠奈=ローリエ、君は一体何に巻き込まれているんだい? 一体どうして、僕を守ってくれたんだい? 今だってそうだ。わざわざ自分の嘘を明かして、僕に嫌われることで僕を君から遠ざけようとしている。一体何が君を――」 


 僕の言葉に、彼女は俯き沈黙を選ぶ。

 しかし返事はあった。

 言葉の代わり、彼女の背中からうねる蛇のように勢いよく飛び出した全長五メートルにもなる水の塊が、僕の頬を掠めて工場の壁をぶち抜いたのだ。

 放たれたのは純粋な水だというのに、それは細剣レイピアによる一閃のように速く鋭かった。

 掠めただけの僕の頬にぱっくりと切り傷が生じている。

 燃えるような痛みの刺激と共に温かい真っ赤な液体が、つうと頬を伝う。

 絞り出すような儚く震える声が、耳朶を打つ。


「もう、やめて……」


 ごくり、と。僕は今しがた起きた光景に思わず唾を呑み込んだ。

 これが、彼女の。瑠奈=ローリエの魔法……。

 ……なんて、美しいんだろう。


「アナタ、私が怖くないの?」


 怖い? どうして。こんなにも美しく、可憐な君をどうして僕が怖がらなければならないんだ。的外れな彼女に、僕はへらへらと笑う。


「ああ怖いね、まったくもって恐ろしいよ。君が可愛すぎて僕は恐ろしい。他の人に取られないかが心配だ。僕という先約があるんだから、瑠奈ちゃんもちゃんと断ってくれなきゃ嫌だぜ?」 


 僕は彼女の問いかけに首を縦に振りつつおどけて見せた。

 けれども瑠奈は納得しない。僕のふざけた態度に苛立ち、その身体から発散する怒気をさらに強める。

 低く、世界を呪うような声が、彼女の可憐な口から発せられる。


「そんな見え透いた嘘に騙されないわ。言いなさい、私なんかに近づいてアナタは一体何が目的なの」

「そんなの君は知ってるはずだ。僕が此処に来たのは、もっと君の事が知りたかったからさ。仲良くなりたいんだよ、僕は君と」

「……ねえ、アナタにだって本当は見えているのでしょう? 私の役回り(キャラクター)が。……私は近づく人に破滅を齎す呪われた女。そんな女にどうしてアナタは当たり前のように話しかけているの? どうして私に優しくしようとするの? 間違っているの、そんなのは私の立ち位置(ポジション)じゃない。私は誰とも関わる事無く、孤独に生きているべき存在なのよ……ッ!」

「でも、それは神様が勝手に決めた君だ。僕から見える君は、クールに大人ぶって、そのくせ子供みたいに感情的な、思いやりに溢れた綺麗でかわいい女の子だ。不幸を齎す呪われた女なんかじゃない」

「やめてよッ!!」


 喉を割るような悲鳴が、僕の言葉を遮った。それ以上はもう耐えられない、心が壊れてしまう、だからもう喋らないで……。

 言外にそう告げる崩壊寸前の少女の絶叫に、僕のよく回る口もその動きを思わず止めてしまう。

 彼女の右手が、腰につるした細剣レイピアに伸びる。

 そのまま手慣れた滑らかな挙動で抜剣、細身の刀身が、穴の開いた屋根から差し込む陽光にキラリと銀閃を反射する。

 瑠奈は、その小さな肩と声を震わせて、キッと僕を睨みつけた。

 その薄紫の瞳に憎悪の色さえ湛え、少女は感情をぶちまけるように叫ぶ。


「もう、やめて。やめてったら。私は、アナタが言うような良い人じゃない。……私が嘘をついてまでアナタを守った? アナタは人を殺せるような人じゃない? うふふ、あはははは! まったく、笑ってしまうわね。アナタの言葉はてんで的外れなんですもの。私はこの力で人を殺せる。だって、今世間を騒がせている連続殺人鬼は何を隠そうこの私なんですから……!」


 ゆらり、と。瑠奈が細剣レイピアを指揮棒のように振るう。すると彼女の周りを泳ぐように漂っていた水流が瑠奈の攻撃的な意思に反応し形をもって鎌首をもたげた。

 蛇のようだと思っていた水塊は、龍の形を象っていた。


「いいわ、納得がいかないのならもう一つ教えてあげる。私が人を殺すのは復讐の為、それが完全な形で終わるまでこの事件は終わらないわ。残念ね、予想が外れて。私はアナタの言うような、アナタが夢見るような優しい女の子ではなかったの。幻滅したでしょ?」


 彼女が操る水は、まるで生命がそこに宿っているかのよう。水の龍はいかつい髭と鋭い牙の生えそろった顔をこちらに向け、僕を品定めするように無感情に僕をねめつけている。

 水流ならぬ水龍使い。

 かなり高位の魔法であることは間違いない。

 これだけの力を有しているなら、彼女の言うように人を殺す事だって難しくないだろう。

 高威力の魔法を見せつける攻撃的な彼女の威嚇に、しかし僕は下がらない

 そんな僕に彼女はますます苛立ち、自分と周囲に言い聞かせるように言葉を重ねていく。


「――私は復讐者。復讐の為なら、目的の為なら、何だってできるし誰だって殺せる。泉の如く湧き上がるこの殺意に、終着点などありはしないの。だから、どいて」


 威嚇するように言葉を紡ぐ瑠奈。これ以上近づいては危険だ。だからこっちに来るな、と。か弱い被食者がド派手な警戒色で警告する姿と、今の瑠奈とが僕の中で重なる。

 そんな僕の様子に、瑠奈は何かを諦めたように一度ため息を吐いて、背筋の縮むような風切音と共にその鋭い切っ先を僕へと突きつけた。

 瑠奈の纏う雰囲気が一変すると同時、世界の色が変わったのかと錯覚した。


災葉愚憐さいばぐれん。これは最終警告です。今すぐに私の前から消えなさい。――さもなくば、私は今ここでアナタを殺すわ」


 瑠奈が僕の名前を初めて呼んだ記念すべきその第一声は、殺害予告だった。

 薄紫の瞳が剃刀のような鋭さをもって僕を射抜く。

 突きつけられた点のような刃の切っ先が、僕にこれ以上前に踏み込むことを許さない、異常な圧力を与えてくる。

 それは警告。日常と非日常とを明確に分ける、境界線のようなものだ。

 瑠奈の発した警告を無視してその一歩を踏み超えれば、僕は間違いなく非日常へ飲み込まれる。彼女はその凍える瞳で、そう僕に告げていた。

 ぶつけられる冷たい殺意と敵意。これ以上ない瑠奈=ローリエの拒絶の意思に、しかしそれでも僕はいつも通りににへらと笑いその一歩を踏み越える。

 殺意も敵意も嘲りも何なら刃だって、向けられるのには慣れている。その僕から言わせてもらうと、瑠奈の殺意は屏風に描かれた虎のような見た目だけのこけおどしだ。


 復讐? 人殺し? 連続殺人鬼? 嘘をつくならもっとマシな嘘をつけよ。そんな殺意なまくらじゃ人は脅せても道化は殺せないぜ。


 だから僕は両手を横合いに広げ、ヘラヘラと人を喰った道化のようにコミカルに笑う。


「あはは、片腹痛いね瑠奈ちゃん。そんなチンケな脅しで僕がはいそうですかって、納得して引き下がると思うのかい? そんなうわべだけの殺意じゃ、僕を騙すことは出来ないよ。でもどうしてもって言うのなら――」


 僕は『ドラゴンゼット』の主人公、ゴゼットみたいに拳を前に突き出し腰を落として構えを取って、漫画の主人公のようにカッコつけて彼女にこう告げた。


「――君が満足するまで、僕が相手になってやってもいいぜ」


 そう。殺意も敵意も嘲りも、向けられる事には慣れている。

 ましてや僕らの暮らすこの国は当たり前のように魔法の飛び交うファンタジーでデンジャラスな国だ。

 それこそバトル漫画顔負けのバトルだって、現実に溢れかえっている。 

 道化の僕が、人々の被虐対象たるこの僕が、荒事に慣れていないとどうしてそう思った?

 君に惚れた男をあまり舐めるなよ。

 認識が甘いぜ、瑠奈=ローリエ。男の子は永久にヒーロー大好きバトル漫画の読者なんだってことを君に見せてやる。


「ほら、どうしたの。遠慮せずに掛かってきなよ。こう見えて僕って結構やるんだぜ? ……それに、たまにあるんだよね。ほら、戦闘中に記憶が飛んで、気づいたら全部終わってたりとか。まあでも安心してよ。女の子が相手なんだ、手加減くらいはしてあげるから」

「……っ、」


 戦い慣れした我流の構えに、彼女の魔法を見てなお余裕綽々に振る舞い、突きつけられた刃物の切っ先にも一切の動揺が見られない、自信に満ちた強者のオーラ。

 そんな僕の姿が想定外だったのか、瑠奈はやや気押されたようにたたらを踏み、僅かに逡巡を見せる。

 だがそれも一瞬だった。

 すぐさま彼女は氷の仮面をその美しい顔にかぶりなおすと、斬り払うように細剣をその場で薙いだ。

 境界線は、今ここに消滅する。ごくりと。僕が呑みこんだ唾がやけに大きな音を立てる。


「……本当に愚かなのね、アナタ。いいわ、そんなに死にたいのなら、望み通りに殺してあげる……!」


 宣言と共に、少女が走り出す。

 瑠奈は不安を押し隠すように強気な言葉を吐き出し、床を蹴りつけ僕との距離を詰めながら、先の魔法を発動してからまだ一分と経っていないにも関わらず魔法の詠唱を開始する。

 その姿に僕は驚愕を浮かべた。


「――満たせ、水の杯(ウンディーネ)! 叫べ、悲恋の女王(カタストロフィ)!」


 ……まさか、この短時間での連続発動ッ!? 

 『設定表記証ステータスカード』を持つこの世界の住人は、神から与えられし恩恵――魔法を使う事ができる。

 それは総じて神々の奇跡の再現であり、世界を捻じ曲げる異法則そのものではあるけど、決して万能な訳じゃない。


 確かに魔法は人の手に余る強力な力だが、細かい制約が存在する。

 魔法の連続発動に関する法則もその一つだ。


 魔法とは本来は神の御業であり奇跡だ。

 それを人の身のまま――魔法ソフトの規格に合わぬ肉体ハードで使用するのだから、何らかの祖語や無理が生じるのは当然と言える。

 人間は魔法を連続して使えない。

 人智を超えた力に、脳が無意識の内にセーブを掛けているとも、単に肉体が連続使用に耐えられないとも様々な理由が推測されているが、純然なる事実として『魔法』は一度発動させると再度の使用にいくらかの時間――『CT』――すなわちクールダウンタイムが必要となる。


 水塊で体長五メートルもの龍を造形し操るなんて高等魔法、普通の人間なら十分以上間隔を空ける必要があるだろう。

 そんな制約を無視して一分以内に――しかも先に発動した魔法を維持したまま――次の魔法を使用するなんて、それこそ類稀なる才能と何千何万の繰り返しと試行錯誤の先、気の遠くなるような鍛錬を経てようやく到達する熟練の達人の域の技だ。


「――我が溢れるばかりの愛憎を杯へ注ぎ、全て食らいて糧となせ!」


 僕の楽観論を嘲笑うかのように、彼女は何の迷いもなく己の詠唱を完成させる。

 そして、


「――『来たれ(サモンズ・)創造の刃(シュトローム)純潔の水龍(・ドラッヘ)』!!」


 くだらない常識を、瑠奈=ローリエは『設定ステータス』の暴力によって強引に突破した。

 叫びと共に瑠奈が指揮棒のように細剣を振るう。

 それだけで新たに三頭、瑠璃の言の葉に応え床面を突き破って現れた水の龍が、僕を呑み込まんとその咢を大きく開き押し寄せたのだ。


 ……いくら彼女が努力家だからってこの規模の魔法をぽんぽん連発するのはちょっとズルいんじゃないかなっ!?


 瑠奈は合計四頭もの水龍を操り、物量によって僕を圧倒しようとする。

 ――『設定表記証(ステータスカード)』には『魔法適性』という形で魔法使いとしての自身の能力すらも記述されている。

 『才能』、『出力』、『魔力量』、『練度』の四つの項目が存在し、それらの数値から総合的に魔法に対する適性が算出される仕組みとなっている。


 僕の魔法適性は『ランクE』。

 最高値がランクSなので、僕のランクEはまあ要するに最低値だ。

 そんな才能無しの僕から見ても瑠奈=ローリエの魔法は規格外に感じられる代物だった。


 同時に四頭もの水龍を操る大規模な魔法を使用する圧倒的な『魔力量』。速度と威力も申し分ないことから、かなりの『出力』であることは歴然。『練度』の数値が関わるCTも短く、『才能』にあぐらを搔いているだけじゃない事も明らかだ。

 瑠奈=ローリエがかなりの高ランクの魔法使いだという事実が彼女の魔法一つでよく分かる。

 僕は謎の余裕と共に感心したように瑠奈の魔法を評価しながら、対応を練る。

 ……いかに速度があるとはいえ、瑠奈の水龍は面ではなく点の攻撃。ならば僕の魔法なら回避は十分に可能だ。そして先も言ったように魔法は一度発動させると再度の使用にいくらかの時間――CT(クールダウンタイム)が必要となる。

 瑠奈はCTもかなり短いとはいえ、水の龍を三頭生み出した今回の魔法は、単純計算で一発目の三倍以上の負担があるハズ。

 次の魔法の発動まで、一分以上の猶予があるのは間違いない。

 つまり、回避に成功すれば僕にも勝機が舞い込んでくる……!

 僕は瑠奈の放った水龍弾をぎりぎりまで引き付けてから、直撃の瞬間に大きく後ろに飛び退きこれを回避――しようとした。


「っと、と……あれ? あれれ……!?」


 したのだが……。

 間合いを図るようにステップを踏み徐々に後ろに下がっていた僕の足が何かに躓き、おおきくバランスを崩してしまう。

 必死に腕を振り回し、何とかその場にとどまろうと足掻くも、奮戦虚しく僕はそのまま後ろへひっくり返った。


「うげっ!? いっつ~~っ」


 僕が躓いたのは倒れていた先の女性のマネキン――マネ子さんだった。

マネ子さんに足を引っかけて、見事にお尻からズッコケて頭を打ち悶絶する僕。そこへ容赦なく新旧合わせ四頭の水龍が次々に牙を剥く。

 魔法を発動する余裕も、避ける時間もなかった。

 頭上から僕を丸のみするように襲い掛かったソレは水鉄砲なんて可愛らしいモノではない。

 恐ろしい勢いを得て弾丸となった大質量の水塊の衝突だ。

 ノーガードの顔面へ力士から張り手を貰ったような重い衝撃が僕を貫き、その衝撃に放心状態に。置いてけぼりの心を無視して僕の身体はスーパーボールのように廃工場内を跳ね回る。

 ようやく止まったと思った時には、僕の身体はぴくりとも動かなくなっていた。


「がはっ、げほっごぼっ!」


 ……痛い、身体中の骨が熱に犯されたように軋みを上げ、痺れたように身体が動かない。骨が折れた、筋肉がつぶれた、中身が壊れた。そんな警告文が脳内を乱舞し頭が痛みに思考を放棄、僕お得意の口も碌に動きやしない。僕はいくらか飲んでしまった水と共に血反吐を吐き出し、うめくような声をあげる事しかできなかった。

 二撃目に供えて距離を詰めていた瑠奈は、最初の一撃で呆気なく沈んだ僕を心底冷めた瞳で睥睨して、


「……弱い癖に、なにが掛かって来いよ、馬鹿」


 呆れたような一言を残して、瑠奈は倒れて動けない僕に背を向け立ち去っていく。

 これ以上、僕と話す事など何もないとでも言うように。


「ま、てよ。……瑠奈、僕はまだ、終わってなんか……」


 敗者の声は届かない。


「……僕は、瑠奈。ただっ、君と」


 いつだって勝者の高笑い嘲笑いにかき消され、誰の心も動かせない。

 道化師はただ、その笑いを誘うほどの惨めさで、誰かの嘲笑の対象になるだけ。

 けれども彼女は、無様に地を舐め這いつくばる僕を見ても笑ってすらくれない。

 彼女を笑わせることすら、僕にはできない。


「アナタの顔、見たくない。もう二度と私の前に現れないで頂戴。不愉快よ」


 ……ああ、また失敗だ。敗北した。これで二七五戦二七五敗かぁ。

 闘い慣れるほどに負け続けた愚かな道化師は、それでも軽薄な笑みを浮かべることをやめられなかった。


「はは……また、僕っ、は。失敗、負けた。のか……ああ、でも次は、絶対に僕が――」


 彼女はやっぱり嘘つきで、殺意も敵意も鼻で笑ってしまうような嘘っぱちだったけれど。凍えるようなその拒絶の意思だけは本物で、


「……大嫌い」

 

 ――ああ、これはいつも通りの。戦闘中に記憶が飛んで目が覚めたら全部終わってるパターンのヤツだ……。


 結局そのまま僕を殺しもせずに、瑠奈=ローリエは廃工場から姿を消したのだった。


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