第99話 偽りの愛の代償
「ギルバート様って、どうして結婚なさらないのかしら。不思議だわ。相手に困るようなことはないはずなのに……、もっとも、あんなに素敵な方を独占しようなんて図々しい女が現れようものなら、わたし、絶対許さないけど」
「……、たぶん理想が高いんじゃないかな。彼はあれで、意外とロマンチストなのかも。運命の恋人を今でも探している口とかね、まあそれはないか……」
「あら、ロマンチストなのは本当ですよ。わたし、断言できるわ。彼は見かけよりずっと繊細で感受性の強い方よ」
「ああ、そう……」
執務机に頬杖をついて、エステルとつまらない会話をしていた。彼女は執務室内の調度品や絵画を眺めたり、批評をしながら、今後の生活のことや、お腹の子供のこと、それに兄さんのことを話題にしていた。
金色の癖のない髪だけ見ていれば、マリーシアに見えないこともないと無理やり自分を説得していたが、顔を見れば明らかに違うのがやっぱりどうしてもつらかった。
おまけに彼女はシェアみたいに優しくない。優しいふりをしていただけだったのかと、僕は今日初めてエステルの本当の性格を知って愕然としていた。
そう言えば僕がエステルを兄さんに紹介した当初から、兄さんはエステルのことをあばずれと言っていたし、カイトもやっぱりあばずれ呼ばわりしているところを見ると、エステルはきっとあばずれなのだろう。
服装以外では、どこら辺を見たら女性があばずれかどうか見分けられるのか、未だによく分からないのだが、それは僕が絶望的に女の人を見る目がないということなのかもしれなかった。いったいどうやって女の人の本性を見抜いたらいいのか、そういうことはあまり本には書いていなかったので学習のしようがないのだが、ほとんどの女の人を可愛いと思ってしまう僕というのは、たぶん致命的に何かが間違っているのだろう。
でも、たとえエステルがあばずれだろうと、これからあばずれをやめてくれればそれでいいとは思っていた。人間は変わることができるものだし、女の人の生き方としては、あばずれでいるのは何かとリスクが大きいんじゃないかと思うから、おとなしくお淑やかにしていたほうがいいと思うからだ。
お淑やかにしていたら、エステルだってたぶんあばずれでいることがあまりいいことじゃないことだと気がつくだろう。彼女は自分は簡単に男と寝てなんかいないなんて言っていたが、最低でも婚約をしていない相手とそんなことをすること自体が間違っているという貞操観念を、身につけたほうがエステルのためにもなるはずだった。
キスするだけで震えていたタティと比べると、エステルの育った家庭はいったいどれほど荒廃していたのかと、憐れむ気持ちさえ湧きあがって切なくなった。家族や周りに大切に扱われた女の子が、自分をそんなふうに安売りなんかするはずがなかったからだ。きっと僕には計り知れない背景というものがあるのかもしれないと思えば、彼女がやってきたことを頭ごなしに否定してはいけないような、そういう気持ちにもなった。
でもひとつとても気がかりなことがあって、それはエステルの性格が、気が強くて恐いほうであるということだった。
となると、僕はこれから兄さんだけでなくエステルの顔色も見ながら暮らさないといけないのかと思うと、自然と気力が抜けていく思いがした。
そこへ、何処に行っていたのかしばらく席をはずしていたカイトが、執務室に戻って来た。
室内に入ったカイトは、そのまままっすぐこちらに近づいて来た。
「本当にこれでいいんですか?」
机の前まで来ると、すぐそこの棚の飾り物を見ているエステルを肩越しに親指で示しながら、不満そうに言った。
「あれは誰がどう見ても、完全に金目当てですよ。アレックス様よりも金品の物色してるほうが楽しいって態度はどうにかならないのかね。ここはお世辞でも貴方に擦り寄るのが筋だろうに、大胆不敵と言うか、本能の赴くままに生きていると言うか。まあそれこそが女って言っちまえば、そうなんでしょうけどもね。
ほら見てくださいよ、金目の物を見ているとき、目の色が違ってる。
それにギルバート様なんて言葉を口にしたときのあの悦び様……、あの様子じゃ、閣下目当てでもあるのは確定ですね。貴方はいい鴨にされたんですよ」
僕はかぶりを振った。
「だとしても、子供がいるんじゃどうしようもない……。
君も一応気をつけて。ここは階級社会だ。腹は立つだろうけど、上辺ではいい顔をしてくれないと。妻に対する態度は、僕に対する態度でもある」
「そいつは分かってますけどね。
しかし、少々あれなことを言いますが、女を妊娠させたからと言って貴方には必ず結婚してやる義務はないんですよ。しかも誰の子供だか分かったものじゃない。それも貴方が惚れた女ならまだしも、強請って来るような女じゃ、貴方はこの先どれだけつらい目にあわされることか。
早まることはありません。正直に言ってあれは、貴方には手に余る女ですよ。子供の将来が心配だとしても、はっきり言って認知で事足りることじゃないですか?」
「だって……、赤ちゃんがいるのに……」
「では、タティのことはどうされるおつもりなんです?」
「タティのことは……、後で考える……」
僕は答えた。
「でも妊娠させた女性を放り出せるわけがないから……、それは人間のやることじゃないから……、僕にはできないよ、そんなの……」
「まあ……、ロビンちゃんがこの話を持って来た時点で、アレックス様は最後にはそういう選択をされるとは思いましたけどもね。まったく、貴方はお優しいから」
カイトは後ろ髪を撫でつけ、やれやれというふうにため息を吐いた。
「人生って、こういうものなのかな」
僕は消沈して呟いた。
「僕は兄さんに勝手に結婚相手を決められるのが嫌だったんだ。それで、タティと結婚しようと思ったのに、結局……、でも考えてみれば、好きな相手と結婚しようなんて、なかなか難しいことだ」
カイトは同意した。
「それはそうです。それが普通ですよ。こんなことがなくたって、所詮貴族に政略婚はつきものだ。結婚に愛なんて必要ないんです」
「言い切るね」
「そりゃもう」
カイトはしたり顔でそう言い、僕は苦笑いしたままうつむいた。
「厳しいね……、こんなはずじゃなかったんだけどな……」
「……、……しかし、このことはすぐに閣下にご報告申し上げないといけませんよ。
そういうわけで今さっき、これから閣下にお目通りをする渡りをつけましたので」
僕は驚いて机の前にいるカイトを見上げた。
「えっ、もう?」
「ええ。アレックス様も、まさか閣下に無断で結婚なんてものができるはずもないことは、お分かりでしょう」
僕は戸惑って視線を膝に落とした。
「でも、まだ何を話せばいいか、考えていないんだ。頭の整理も心の整理もつかなくて。何日か考えようと思っていたんだけど」
するとカイトは極めて事務的な口調で言った。
「いえ、こういうのは時間を置かないほうがいいですよ。大丈夫、ありのままをお話してください。飾ることはない。閣下はどうせアレックス様にそういうのは望んでいません。取り繕うようなことをすれば、かえって怒りを買いますよ」
僕は確かにその通りだと思って、ため息を吐いた。
「君っていうのは、いつでも冷静だね。まったく羨ましいや……」
「そりゃ、仕事ですからね」
「やっぱり、怒られるかな……」
「たぶんね」
「兄さんは結婚を許してくれるだろうか」
「波乱は必至かと思います。ご自分が手をつけた女が弟嫁じゃ、どんな反応が返ってくるやら想像するだに恐ろしいですね。俺としちゃ、こんな日は厄日としか言い様がない――、上手く乗り切ったとしても、先が思いやられますよ……、ま、と言って秘密にしておける性質の話ではありません。
もはや貴方じゃどうにもならないんですから、さっさと話してご判断を仰ぐ……っと、ここは上手く折り合いをつけるしかないってもんでしょう」
エステルはカイトのことが気に食わない様子で、執務机を挟んで話しているカイトのことを、後ろからしきりに睨んでいた。
エステルっていうのはもっと可愛らしい女の人だとばかり思っていたのに、さっきの剣幕といい、そういうときの態度はとても悪く、すれっからしという表現が適切かどうか分からないが、僕の知っているエステルとは別人のような顔をしているのが僕は少し恐かった。
本当は、僕はエステルと結婚したくないんだという自分の気持ちに気づいたが、赤ちゃんがいるのにそんなことを言えるはずもない。子供を路頭に迷わせることは、絶対にできないことだからだ。
兄さんに事の次第を報告するべく、僕たちは執務室を出て居城の冷え込む廊下を歩いた。
「いいか女、アディンセル伯爵ってのは、あんたが考えている以上に非情な方だ」
僕の腕に腕を巻きつけて歩くエステルに、カイトが冷たい口調で釘を刺した。
「アレックス様や自分の女には甘い顔も見せるが、凍りつくように冷酷な思考をお持ちでいらっしゃる。
だからこれは最終警告だ。もし、腹の子供がアレックス様の子供じゃなかったりすれば、おたくの生命はまずないと言っていいだろう。だから、白状するのなら今のうちってもんだぞ。
今ならすべてをなかったことにしてやれるが、話が閣下に渡れば二度と言い逃れはできやしないんだからな」
ところがエステルに動じる様子はなく、もっと冷たくて陰湿な態度で、こう言い返す始末だった。
「わたし、あんたのこと大嫌いだわ。アレックス様の腰巾着のくせに偉そうに。
今だって、ギルバート様やアレックス様の権力を笠に着なくちゃろくに意見だって言えないくせにね。さすがにちょっと生意気だと思うわよ。
わたしがアレックス様の子供を妊娠しているのは真実よ。どうしてそんな嘘を吐かなきゃならないの? だって、そんなの赤ちゃんが生まれて来たら分かることじゃない。きっとすごく綺麗な顔した赤ちゃんのはずなんだもの……。
ギルバート様が恐ろしい一面を持っていることは承知しているけど、でもわたしは嘘なんて吐いていないから平気よ。
見ていなさい、あんたはいつか酷い目にあわせてあげる。わたしにこんな態度を取ったことを、必ず後悔するような目にね。
ああ、伯爵家の血を引くお腹の子供が生まれて来るのが楽しみだわ」




