第98話 愛のない結婚
僕は、僕のために僕を弁護してくれていたカイトのことを最後には怒鳴りつけ、結局僕はものすごく混乱していたのかもしれないが、とにかくエステルと結婚することを決めた。
それによってエステルは今まで泣き喚いていたのが嘘のように、非常に満足な表情をしていたが、僕は道義的に見てとてもいい選択をしたはずなのに何故か気持ちが浮かなかった。
「それは本当ね!?」
弾けるような笑顔になって、エステルは言った。
「うん…」
僕は頷いた。
「わたしと、結婚してくれるのね!?」
「そうだよ」
「わたしをアレックス様の花嫁にしてくれるってことよね?」
「そう」
僕が言うと、エステルは両手を組み合わせて嬉しそうに微笑んだ。
「わあっ! すごいっ、すごいわっ。じゃあわたし、伯爵家の一員になれるのねっ!
でも、わたしはこれからちゃんと貴族として扱って貰えるのかしら? 平民出だからって、馬鹿にされたり、召使いみたいに扱われるようなことがあったら嫌だわ。
ねえアレックス様、そこら辺のことって、どうなるんですか?」
「大丈夫だよ。分かっているみたいだけど女性は結婚で……、貴族籍に入れる。そういう出世の仕方は、サンセリウスでは男は絶対無理だけど。女は階級さえ飛び越せるんだ」
「あはっ、わたし、女の子に生まれてよかった!
じゃあ、じゃあ、わたしって本当に貴族になれるのね。それも領主様の家族の仲間入りなのね。
アレックス様にはもうご両親がいらっしゃらないし、姉妹もいないから、わたしを目の仇にして意地悪をするような人たちもいないっていうことだし。
ギルバート様はわたしを妹同様に守ってくださるかしら……。ねえ、わたし、アディンセル家のプリンセスっていうことになるのですか?」
何というどうでもいいことを聞いてくるのかと思ったが、女の人はお姫様に憧れるものらしいので、僕は一応頷いた。
「それでいいと思うよ。名乗りたければ……、でも夫人という気もするけど」
「あっ、そうですね、結婚するんですものね。つい浮かれちゃいました」
「好きにしていいよ」
僕は呟いた。
「わたしがアレックス様の奥さんになったら、そこの馬鹿男より偉くなるってことかしら?」
さすがに有頂天になってはしゃいでいるエステルがそろそろ気障りだったが、僕には彼女を振り払う余力はもうなかった。エステルがカイトを指差したので、僕はそれに応じて質問に答えた。
「そう。偉くなるよ。偉いって言うか……、階級の上ではそうなるね」
「彼は何者なの?」
「ウェブスター男爵家の嫡男」
「平民じゃないんですか?」
「違うよ。ちょっとだけ平民の血を引いてるってだけだよ。さっきの話はたぶん誰かが大袈裟に言ったんだろうけど、彼はちゃんとした貴族の家の男子だよ」
「ああ……、そうなの。じゃ、よっぽど性格が悪くて嫌われ者ってことなのね。確かにこの男の根性はひん曲がってるもの。それで、男爵様になるってわけ。でも、男爵ってそんなに偉くないんでしょ?
平民のお金持ちより全然お金なんて持ってないくせに、貴族だってだけで威張ってる奴らがいるけど、そういう連中とはどう違うの?」
「確かに我が国では男爵は数が多いから、そういうことになっている場合もあるけど、やっぱり爵位の威力は大きいよ。彼は王様のパーティーにも出られるよ。君が言ってるのは底辺の下級貴族だろうね」
「ああ……、なるほどね、底辺の。貴族様にもいろいろあるんですね」
「そのようだね」
「ねえ、この男に、わたしって命令できるのかしら?」
「できるけど……、身分があるからって横暴なことをやるのは褒められない。慕われないよ」
僕が言うと、エステルは非常に挑戦的な顔をしてカイトを見た。
「あらあ、慕われる必要なんて全然ないわ。こんな奴には、これっぽっちもね。
わたしのことを馬鹿にしたこと、絶対許さないんだから。
あんた、取り敢えずわたしに謝ってよ。失礼なこと、言いまくったんだから」
エステルがカイトに言うと、カイトはきっぱりとそれを拒否した。
「誰があばずれに頭なんか下げられるか。冗談は顔だけにしろ」
カイトは不機嫌な様子でそう言って僕とエステルに背を向け、そのまま執務室を出て行ってしまった。
彼が立ち去るのをしばらくの間睨んでから、エステルは僕を見上げて言った。
「ほんと、つくづく失礼な性格ね。冗談は顔だけにしろって、どっちがよ。
きっとアレックス様が自分よりわたしの言うことを信じたから、ああいう反抗的な態度を取っているんでしょうけど、ほんとに性格が悪いこと。
ねえアレックス様、あの男、わたしに逆らったわ。逆らわれたらどうすればいいの? 罰を与えるとかできるのかしら。
きっとわたしが平民だからって、失礼な態度を取る奴は、これからも出てくると思うのよ」
そしてエステルは僕の服の袖に触れ、甘えたような態度を取ったが、僕はだんだん頭痛がしてきていた。エステルの振る舞いは無邪気と言えないこともないが、どう考えても下品だった。権力を手に入れる話を聞いただけでこれなら、実際にその立場になったら何を言い出すだろうと不安になった。
「そういうことは、兄さんに習ってよ。僕はそういうのは得意じゃないんだ……」
「ギルバート様に!?」
エステルは途端に感激したような顔をした。
「いいんですか!?」
「いいんじゃないだろうか。たぶん……」
「ああっ、ギルバート様、わたしとお話してくださるかしら。お食事とかも、一緒にしてくださるかしら。
ああ、どうしよう。どういうふうに接したらいいかしら。とびきり可愛くしておかなくちゃだわ。髪も整えて、お化粧に爪に……、これからは、義理の兄妹になるのよね」
そんなことはどうでもよかったし、兄さんの機嫌次第だと思ったが、僕はもう答えるのが面倒になってふらふらと執務机の椅子に戻った。僕はエステルのこういうおしゃべりが苦手だと感じていたことを思い出していた。女特有の中身のない会話が。
彼女のくるくる動く表情は非常に可愛いと思うのだが、せめて考えを纏めてから話してくれると有難かった。すべての女がそうだとも、中身がないとも言わないのだが、彼女の場合はそうだった。
僕は椅子に座り、くたびれた老人のように息を吐き出して、何度かマリーシアのことを考えた。
それから、タティのことを。
窓の外は相変わらず冬の嵐が続いていて、まだ午後四時をまわったばかりなのに既に夜みたいに暗かった。
雪の降る夜は、真夜中でも空がずっと明るいことを僕は知っていたが、でもそのときは自分の心情を反映しているみたいにどこもかしこも真っ暗だった。
そして僕の気持ちも真っ暗だった。僕は結婚生活に夢ばかり見ている若い女性ほどには結婚に夢ばかり見ていたわけじゃないのだが、少なくともきっと胸躍るものだろうとは思っていたのに、そのときはこんなはずじゃなかったのにという思いが、頭の中を暗雲のようにぐるぐると巡って止まらなかった。




