第96話 姦淫問答(5)
それでまたしても目の端に熱いものがにじんできて、もう僕は泣きだすのに一秒だって耐えられなかった。何もかもがあまりにも汚れていて、何もかもがあまりにも酷すぎた。すべてのことが僕の対処能力を超えていて、僕はもう、こんなことは耐えられなかったのだ。
「ごめんなさいっ……」
「玩具にしたって、おいおい馬鹿を言うな。まさか被害者面するつもりなのか?」
その僕の謝罪を遮って、カイトが厳しい声でエステルを批判した。
彼もこのときばかりは僕のことを無能とばかりにきつく睨み、執務机に近寄りすぎだとエステルの肩を乱暴に押して、彼女を僕から遠ざけさせた。そのまま王女の騎士もさながらに僕の机の前に立ち、壁になってエステルの視線から僕を守った。
それは何よりもこれ以上僕に弱気を言わせないための措置だった。そのおかげで僕は急いで目もとを拭い、また人前で泣くという最悪なことをしないで済んだのだが、僕はカイトの行動を頼もしいと思うよりも前に、とても複雑な気分になり、別の意味で頭を抱え込まなくてはならなかった。
僕は所領における最高責任者ではないのだが、それでも領主やそれに準じる立場にある者が交渉の場で軽々しく謝罪なんか口にしたら、何重の意味で終了なのだ。
「まったくおたくってのはどういう厚かましさだ。州領主の弟相手に恫喝とは。
さっきも言ったが、この方は国内でも家格の高い名門貴族の男子だ。この方と対等に口がきける貴族は数えるほどしかいない。国内の九割の貴族が無条件で頭を下げて傅く相手だぞ」
何処かでは僕にも言い聞かせるように、呆れた口調でカイトは言った。
「アレックス様に想う女がいることは、あんたも最初から知ってたはずだ、恥ずかしげもなく妊娠をネタにこうして男を強請りに来れるあんたみたいな世慣れた女なら、その程度のことに感づかないわけもない。
それに、あんただって自分でよく分かっているんだろう。すべてはあんたが自分で劣等感を丸出しにしている通りだ、平民女が本気でこの方に相手にして貰えるとでも思っていたのか? 伯爵様は勿論、アレックス様のような育ちのいい方がおたくみたいな女のことを本気にするとでも? 馬鹿な、そんなことあるわけがない!
いいか、彼はあんたが誘ったから応じたまでだ。あの夜あんたにやらせてくれるって言われたから、仕方なく相手してやったんだよ。あんただって、楽しみたかったんだろう?
だがそれが結婚に発展するなんて、どう考えたってそんなことは起こり得ないだろうが。
ったく、遊びで妊娠をしたんなら、自分で始末するのが筋なんだよ。石榴が何のためにそこらじゅうに生えていると思っているんだ」
「何よっ、あんたもしかしてあたしに堕胎しろって言ってるの!?」
「うっ、いや…、……ああそうだ。その通りだよ。仮に腹の子供がアレックス様の子供だったとしてだ、そんな子供を産んで貰ってはこの方に迷惑がかかるってことくらい分かるだろう。おたくはこの方の正式な恋人か? 妊娠を待望されている婚約者か? それともおたくは清純なお姫様か? どれもまったく違うだろう。
その辺りのことは、自分で常識で考えろ。第一、そんな子供をアディンセル伯爵家が生かしておくとでも思うか? 伯爵様がこの方を溺愛されているのは知っているだろう。
どんなに隠しても、伯爵様には腕利きの魔術師がいて、所在なんてものは一発でばれちまうんだ。産んだらかえってあんたが家族ごと危ういことになるんだよ。
おたくほどのあばずれなら、何が自分にとっていちばん得になるか、打算するのはお得意だろうが。誰とでも寝る遊び人のくせに、これ以上気分が悪くなるようなことを言わせるな」
「はあっ!? だからあたしは誰とでも寝てなんかいないって言ってるじゃない、黙って聞いてりゃ、あんた、何様よっ!」
「そうだ、それがおたくの本性だろう。そうやって人の忠告には耳を貸さない、しかも男を相手に恫喝できるあんたってのはな、まったくお里が知れているんだよ。どんなに着飾っても、悲しいかな育ちってのは隠せないもんなんだ。それはこの俺が誰よりもよく知っている。
だいたいが擦れてるくせに、夢を見過ぎなんだよ。自分を見ているようでつらくなるから、もう諦めて帰ったほうがあんたのためなんだ。金なら既に伯爵様から、たんまりと貰ってあるんだろ? 上手くやったじゃないか。引き際を間違えるなよ」
「エステル、妊娠したって、ねえ、それは間違いないことなのかい……?
そんなに簡単に妊娠なんてしないよね、だってタティはしてないんだから……」
「アレックス様、こんなに訴えているのにまだわたしを疑うんですかっ?」
「だって、だって、一回しかしてないのにそんな……」
「今更情けないこと言わないでよっ、前からもしかしたらって思っていたけど、アレックス様貴方って、頼りないだけじゃなくて、一回でもしたら出来るかもしれないことも分からないほどボンクラなの!?」
「でも、でも……」
「それに、だいたい、一回じゃなかったわ!」
エステルは捲くし立てた。
「もしわたしの言うことを信じないって言うなら、それでもいいわ。だけどわたしはこの話を知り合いの新聞社へ持って行くわ。泣き寝入りなんか、絶対するもんですかっ!
見ていらっしゃい、あのアディンセル伯爵の弟のことなら、大衆紙じゃなくたって、偉い人が読んでるような真面目なところだって、たぶん記事にしてくれると思うから!」
机の前で、カイトが額を押さえているのが分かった。
この逃げ場のない酷い会話の内容に、僕の意識は朦朧の挙句に空の高みへ飛んで行きそうな感じがしていた。