第95話 姦淫問答(4)
「確かにそれは……、あんたも痛いところを突いてくるもんだね」
カイトは苦笑した。
「さすがに伯爵家の方を手玉に取ろうとたくらむあばずれだけのことはある。これだけ言われて引き下がらないとはすごい度胸だ。尊敬するね。本当のところ、伯爵様すら初めての男ってわけじゃないんだろうに、おたくときたらあたかも純潔を奪われたと言わんばかり。いやはや、堪らんね」
「はん、何とでも言えばいいわ。この腐れ男娼。でもお生憎様。動かし難い事実として、わたしのお腹にはアレックス様の子供がいるのよ!」
エステルはそう言って、自分の下腹部にそっと手を添えた。それを見た僕はとうとう罪悪感に耐えかねて、嗚咽をあげそうになった。
しかし構わずカイトは続けた。
「しつこい女だな。だから何を根拠に。腹の子供がアレックス様の子供である確かな証拠でもあるって言うなら話は別だが、そんなものが存在するわけもない。
どうせ財産狙い、地位狙い、それともあんたが誰かの間者で、この一連の問題がアレックス様やひいてはアディンセル家を陥れようという何某かの魂胆かもしれない可能性のある以上、こちらがおたくの馬鹿げた要求に応じることはない。今すぐ帰れ」
「責任を、取りなさいよっ!」
「責任? どうして。誰の子供かも分からないのに恐ろしい言いがかりを言うもんだ」
「言いがかりじゃないわ、あんたも知っているじゃない、それを、それを何なのよこの馬鹿男!」
「どうとでも罵ってくれ。あんたの妊娠が、この方には関わりのないことだってこちらの主張を、理解して貰えればそれでいい。
いいかおたくが泣こうが喚こうが何を言おうがだ、アレックス様がわざわざそんなでたらめな話を真に受けることはないってことだよ。
ともかく、ここはお引き取りを願うしかない。まったく何度も言ってるだろうが。さっさと帰れ。それともおたくは尻だけじゃなく頭も軽いってわけか? ぶん殴られたくなかったら、もういい加減にしておけよ」
カイトは埒が明かないことに痺れを切らしたのだろう。たぶん本気ではないだろうが、実際に胸の前で拳を叩き、最後には暴力を辞さないことを表明してエステルを脅したのだった。女が男の暴力に対抗できるはずもないのだが、日頃鍛錬を欠かさない騎士である男が相手であればなおさらだった。
騎士が女性を殴るなんてことはあってはならないことだったし、このやり方は紳士にとって禁じ手ではあるが、聞きわけの悪い女を従わせるには手っ取り早いことでもあった。性質の乱暴さを容認できないことと、その後の関係悪化を思うと僕なら絶対持ち出せないが。
しかし効き目は絶大なようだった。どうにも抗い様がない手段をはっきりとしかも陰険にそう言われると、エステルにはなす術がないようで、彼女は悔しそうに地団駄を踏んだ。
「フン、実力行使ともなると、辛うじて理解できるようだな」
カイトは拳を引っ込めて腕組みをし、エステルを見下ろして冷たく言い放った。
「分かったんならさっさと帰れ。もっと酷い目に遭いたくないなら、そのほうが賢明だ」
「このごろつき! ろくでなし!」
「そいつもお互い様だろうが。ったく猿みたいにギャーギャー喚きやがって。野生育ちの猿女はとっとと消えろ。死にたくなければな」
「はん、それはアレックス様の赤ちゃんごと? できもしないくせに口だけ達者!」
「いんや、できるとも。許可さえ下りればな……」
そしてカイトはおもむろに僕に視線を向けた。
その目つきと声色が普段からは考えられないくらい意地悪なので、カイトは実はかなり性格が悪いのかとも思ったが、言っている内容は僕の利益を守るためのことだったので、カイトとしては僕のために、こちらの落ち度を認めない目的で徹底して悪役を買って出てくれているということなのだろう。
それでもかなり口が悪くて、性格がきついことにはショックだが、僕のことをサディスティックだなんてそれで言えた義理かと思ったが……、そして僕は自分のしでかしたこの罪の重さや申し訳なさに、本当に慙愧に堪えない思いだった。
それなのに、女のエステルがこうやって妊娠を訴えているというのに、僕はそれに応じる勇気を持たなかったのだ。僕は自分一人が被害者の顔をして取り乱し、混乱して、この嵐が過ぎ去ってしまうことを期待してこうして椅子に座っているだけだった。
僕は彼女の人生を狂わせてしまった罪の意識に押し潰されかけてはいたが、それでもなおエステルが伸ばしている手を掴んであげようとは思っていなかった。
ここは僕が声をあげて、エステルに対して責任を取らなければならない場面だということはもう分かっているのだ。カイトに頼って、彼に体よくエステルを追い払って貰おうなんて考え自体が間違っていることはちゃんと分かっていた。
だけど僕はそうするのが怖くて両手を握って震えていた。エステルを妊娠させておきながら、どうしてもその決断ができなかった。
だってそんなことをすればこの先僕の人生はまったく違うものになってしまうのだ。そんなことをすれば、もうマリーシアに会うことができなくなってしまう。安心して空想に耽ったり、安息の眠りに微笑む機会も失われるだろう。愛していない女とその子供に、人生を丸ごと乗っ取られる絶望感は想像を絶していた。
僕は兄さんのように結婚から逃げまわる男の気が知れなかったのに、手を出しておきながら結婚をしない彼のことを心底卑怯で身勝手だと思っていたのに、今はその気持ちが痛いほど理解できていた。
僕は本当に、一時の快楽の代償の大きさというものに震えがとまらない思いだった。
「アレックス様、お願い、信じてください……、赤ちゃんがいるのよ……」
カイトから言われた通り素直に退室するでもなく、彼の非難から逃れるように、弱った顔でまだ僕に助けを求めて来るエステルが邪魔臭かった。
とても可愛いと思っていたはずのエステルが、そのときの僕の目には、僕の人生に無理やり入り込もうとする侵入者のようにさえ映っていた。
エステルが悪いわけじゃない、彼女は当然望むべきことを望んでいるだけだと分かっているのに、僕には彼女の要求が鬱陶しく、しかも不届きなことに思えてならなかった。
「本当に、僕の子供なのかい……?」
僕は自分でさえもよく分かる憔悴した声でそうたずねた。
すると僕の気分を見抜いたのか、途端にエステルは眉を怒りに吊り上げて叫んだ。
「ええ、そうよアレックス様。貴方の子供よ!
貴方までわたしを疑うつもりなのっ!? いいえ貴方はそこの馬鹿男と違って、わたしのことを信じてくださるでしょう、そうよねえ!?」
そのどすの聞いた声と突然の態度の変わり様に、僕は身体を震わせた。
できれば信じたくない気持ちで、恐る恐る、一生懸命彼女のご機嫌を窺うようにして再度同じ疑問をエステルに投げかけた。
行為をしておきながら言っていることが汚いということは分かっていたが、でもこれはどうしても確かめなくてはならないことだった。
「で、でも、一回しかしてないのに、そう簡単に妊娠するものなのかな……?
ねえ、それは本当に僕の子供なのかな、本当に……?」
するとエステルは目を細めて顎を上げ、どうにかして責任から逃れようとしている僕のことを、いよいよ軽蔑するような目で見た。
「アレックス様、貴方も、随分酷いことをおっしゃるのね。
貴方だけはそこら辺の不埒な男どもとは違うと思っていたのに。貴方も所詮は低俗な男っていうわけね。
わたしにあれだけのことをしておきながら、わたしのことを疑うなんて貴方正気なの?」
「だっ、だって、だって、タティには出来ないんだよ。タティにはなかなか出来ないんだ、それなのに君に出来るなんて、そんなの変だよ、タティには出来ないのに……」
「タティ? タティって誰よ」
「アレックス様の恋人だ」
エステルの質問に、カイトが横からまた陰険に答えた。
「おたくとは違って、アレックス様を一途に愛している清楚な貴族の女性だよ」
わざわざ言わなくてもいい余計な一言のせいだったのだろう。それでエステルの顔がますます怒りに歪んだのが分かった。
「そういうこと」
エステルは笑い、それから僕の執務机に近づき、両てのひらでばんと叩いて、激しい口調で僕をなじった。
「貴方もわたしを玩具にしたってことなのねっ!
わたしはこんなに美人なのに……、貴族じゃないというだけで人間扱いもされないんだわっ!」




