第94話 姦淫問答(3)
すると泣いているとばかり思っていたエステルが、いきなり顔を上げてカイトを怒鳴った。
驚いたことに、泣いていると思ったエステルは、実は泣いてなんかいなかったのだ。
「人がおとなしく聞いていればっ……、あんたね、わたしのいったい何処があばずれだって言うのよっ!」
エステルは叫んだ。
「わたしは一度だって男と簡単に寝たりしたことなんかないわよ、ちゃんと相手のことを見ているわ。だからあんたみたいなその他大勢のクズみたいな男となんか話だってしないくらいよ。結婚してもいいと思える相手とでなくちゃそんなことしない。これでも身持ちは堅いほうなんですから勝手なことを言わないでよ!
それに何ですって、売春婦ですって? チンピラですって? あんたはわたしのことなんか何にも知らないくせに、よく知りもしない女を掴まえていきなりあばずれ呼ばわりだなんて、そっちのほうが下品すぎて話にもならないわよ、この恥知らずっ!」
「何だと?」
「はん、馬鹿じゃないの。そうやって恐い声で脅したって無駄よ。あたしはあんたなんか怖くも何ともない。アレックス様の子供かもしれない赤ちゃんがお腹にいるのに、手下に過ぎないあんたがあたしに手をあげるなんて、できるわけがないことだもの。そのくらいのことは分かってるわ」
「……」
「ほら見なさい、頭の中じゃ本当はそうかもしれないと思っているくせに、そうやってとぼけて、人のことを誠意がないとか言って悪者にしてさ!
あんたはとんだ食わせ者だわ。でも妊娠させられた女の立場にもなってみなさいよ、怒鳴りたくなるのも当然でしょっ!? 他でもないあたしがアレックス様の子供だって言ってるんじゃないの。
あんた、奥さんは? 子供でも持ってるの?」
カイトは首を横に振った。
エステルは話にならないというようにカイトを鼻で笑った。
「だったらあんたに女の身体の何が分かるのよ。女のあたしが妊娠したって言ってるんだから、それを信じなさいよ。やることやっておいて逃げるなんて、それこそ人間に備わっているべき品性ってやつがないってことなんじゃないの?
それにわたしはアレックス様と話しているのであって、あんたみたいな下っ端となんか話してないのよ。あんたはあんな噂を立てられるくらい貴族仲間から馬鹿にされているみそっかすのくせに、もっと謙虚にしたらどうなのよ」
エステルはそう言うと、今度は逆に自分から堂々とカイトににじり寄って、彼を見上げた。
「あんた、男娼って言われたことがよっぽど気に入らないみたいだけど、でもカチンと来るということは、きっとあの話もある程度は本当のことなんでしょうね。
ところがそんな努力の甲斐もなく、周りは結局誰一人あんたのことなんて認めていないのね。それどころか姑息な手段で出世したことを見下されて、聞いてびっくり男娼呼ばわり!
あんたのポジションが、よく見えるお話だわね。あんたはいつも誰からも相手にされず、馬鹿にされて生きてきたんでしょうね。そしてそれを唯一の理解者であるアレックス様に知られて、恥ずかしくてたまらずにぶち切れてるってわけなのね。偉そうなことを言ってても、本当はアレックス様のためじゃない、まったくの個人的な別件で、あんたは怒ってて……でもそのせいで全部ばれちゃったおバカさんってわけ!
あーあ、惨めな自分を知られないために、きっとこれまで一生懸命隠してきたんでしょうにね。あはっ、可哀想っ! ざまあないわねっ!」
カイトが顔を歪めると、間髪置かずにエステルは続けた。
泥仕合のようなこの展開に、僕はすっかり唖然としていたが、そうする以外にもうどうすることもできなかったのだ。
「ねえ、せっかくだからわたしもあんたにいいこと教えてあげるわ。あんたってのはね、平民のくせにいきがってるからいけないのよ」
まるでカイトを言い含めるような、しかし嫌味のある口調でエステルは言った。
「貴族の皆さんも、平民なんかが偉そうにアレックス様にくっついて歩いてたらそりゃ面白くもないわよ。
だってアディンセル家のお城で働く平民なんて、ほとんど下働きの召使いなんでしょう。だったらどうしたって面白くないわ。本来なら自分の靴磨きをしているような身分の男が、アレックス様について威張って歩いてるんじゃやってられないでしょうよ。想像してみればすぐに分かることだわ。わたしだって、大事なお腹の子供の側近に、将来卑しい平民がつくなんて考えられないことだし。
あんた、貴族に混じって暮らしていたって、自分が惨めになるだけなんじゃないの? 平民なら平民らしく、もっと頭を低くして、卑屈になってさ、身の丈にあった暮らしをしなさいな。どうせあんたなんかじゃ一生仲間になんか入れて貰えないんだから。あんたにはそれがお似合いだわ。
男のあんたには、誰かの愛人にはなれても、その女と結婚して出世するなんて方法はないんだしね。だから最初からそうやって分不相応に自分を高く売ろうなんて思わないことだわよ。あんたはくだらなくて価値のない人間って弁えなくちゃね」
「それだけ口が聞ければ上等だ」
多少傷ついたような顔で、カイトは言った。
「平民なのはお互い様なのに、あんたはよくもまあ自分を棚に上げてそこまで人を貶められるもんだ。呆れ果てる。よく口がまわることだけは褒めてやるが、あんただってそのことが理由で、痛い目にあってきたことだってあるだろうに……」
「お互い様じゃないわよ」
しかしエステルは胸を張った。
「わたしには、アレックス様の赤ちゃんがいるもの。だからわたしの人生は、これから劇的に変化するのよ。わたしは貴族になるの。わたしはこれからあんたや、わたしを馬鹿にした連中を見返してやるのよ」
「無理だね」
カイトは請け合った。
「平民女にゃこの方と結婚するなんてことはできない。あんたがどんな手管を使おうが、この方の赤ん坊を十人産もうが絶対に無理だ」
「どうしてよ!」
「アディンセル家は過去に王女が降嫁されたこともある家柄だからだ。おたくが嫁ぐには、さすがに家格が高すぎるんだよ。男系ではないにしろ、この方は先祖を辿れば歴代国王や建国王に連なる。そんな家系に平民を入れるわけがない。そんなことが許可されるわけがない。
彼は機会が合えば王子の学友にだってなれる立場だ。年頃の王女がいれば、彼女と結婚することも夢の話ではないだろう。つまりそういうことだ」
「そんなこと関係ないわよ」
エステルはきっぱり言った。
「だってわたしはアレックス様の子供を妊娠しているんだもの。貴族になれるのよ」
「まだ分からないのか……」
カイトは息を吐いた。それからまた顔と声を険しくした。
「これだからあんたはあばずれだって言うんだよ。何にも分かっちゃいないくせに、何が貴族だ。
じゃあはっきり言ってやるが、あんたは絶望的なまでのど庶民で、生まれたときから厚遇されているお姫様連中と本気で張り合えると思っている身の程知らずの馬鹿娘、しかしそんな夢を見ている割には二十歳そこそこで女を使うってことを身につけちまってる可愛げのないあばずれな上に、救い様がないほど根性がひん曲がっているからまったくアレックス様にゃ相応しくないってことだよ。
結婚前に妊娠したなんて非常識なことをな、こうやって堂々と話している時点であんたは女として終わってるんだ。これは結婚前の女がする会話じゃないだろうが。どれほど恥ずかしい話をしているのか自覚がないようだが、こっちはいったい何処の飲み屋の商売女と話しているのかと錯覚するほどだ。身の程を知れ。このドブス。大概にしろ」
「なっ、ドブスって何よっ、人を馬鹿にしてっ! わたしが女だと思って、平民だと思って、こう言っているのが貴族のお嬢さんなら、同情のひとつもしたくせに……!
だけど幾ら偉そうにそんな御託を並べたところで、わたしがアレックス様と寝た事実は変わらないのよ。
だいたいね、平民女を日頃畜生も同然と扱ってるのはあんたたちでしょうっ!?
そしてアレックス様がわたしを妊娠させたのよっ!
そうよ、わたしをあばずれって言うなら、アレックス様はどうなの? 兄弟で同じ女を共有するほうがよっぽど神経を疑うわっ!」




