第93話 姦淫問答(2)
もはや頭も心も機能しない僕に代わって、カイトが引き続き冷静にエステルに応対していた。
彼は心臓が縮むようなエステルの訴えを、最初からまともに聞いている様子はなく、エステルが話している間中、カイトの顔には苦笑と嘆息が入り混じっていた。
「そうは言うけどね、あんたもご承知の通り、男にゃそんなもんを確認する手段はないんだよ。だから、女の言う言葉を鵜呑みにするしかないってわけだ」
落ち着き払った様子で、カイトは言った。
「普通なら、関係を持った女の言葉を信じるのが男ってもんだろうよ。それが人間ってもんだし、誠意ってもんだ。自分の子種を身ごもった女には、なおさら愛着も湧くってもんだろう。
だけどアレックス様とおたくとの間にゃ、信頼関係もクソもない。恋人関係ですらない。あんたのやったことっていうのは、言うなればほとんど行きずりの男に身体を許したのと同義だろう。それを、そんなほいほい男に身体を許すような品の悪い女の言葉をだ、信用して、ましてや責任を取るなんてことを、この方はそう気軽におできになる立場じゃないんだ。
だいたいからしてそんな言葉を信じる男が何処にいる。あんたの生活を把握しているわけでもない、行きずり女の言葉の何を信じられるって言うんだ。
これにはあんただって同意見のはずだ、ある日一度寝ただけの男が赤ん坊を抱えて目の前に現れて、二人の子供だと言ったらどうするね。普通受け入れないだろう。真っ先に頭がおかしいか、詐欺を疑うだろう。
だから悪いがおたくの言うことをこちらが信用するということはない。
まして閣下と別れてすぐその弟と寝るなんて、俺は正直言って、最初からおたくの倫理観や神経を疑っていたしな」
カイトは飽くまで静かな語り口でそう言い、僕の執務机の前にいるエステルを見下ろした。
するとエステルは当然のことながらカイトの言ったことに抗議したが、カイトは彼女にはっきり目をやっていながらそれにはまったく応じなかった。目の前で彼女を見ていながら、エステルを無視しているのだ。ときどき薄く笑って、まるでエステルを馬鹿にしている素振りもあった。それによってエステルの頬が怒りに紅潮し始めてもお構いなしだった。
僕は日頃カイトのことをなんと神経の太い、図々しい奴だろうかと思っていたものだが、このときほどこの神経の座った部下を持っていることを、心強く感じたことはなかった。
やがてカイトは憤然と怒りの表情のままでいるエステルに対して後方の出口を指さし、先ほどからの彼女の剣幕を恐れるでもなく、帰るように指示した。
「あんた、まさか妊婦をこのまま追い返すつもり!?」
エステルが怒鳴っても、カイトはその方針を変えなかった。彼は極めて事務的な立ち振る舞いで、彼女に重ねて執務室からの退去を促した。
「その通り。言いたいことはだいたい吐き出しただろ。そろそろ気も済んだだろうから、暗くならないうちにどうぞお引き取りを」
「あんたねえ、人を馬鹿にするのも」
「こっちの考えとあんたの考えは相容れない。平行線だってことが、あんたにも分かっただろう。しかもあんたの言い分は、常識的に言って到底通りゃしない代物だ。どう考えてもアレックス様のところに怒鳴り込んで来るなんてのはお門違いもいいところなんだからな。
そもそもおたくがここに通されたのだって、以前あんたが閣下の女だったってコネが残ってなきゃ無理なことなんだが、今後は二度とこの方に面会できないように手配するから覚えておけ。
とにかくアレックス様には、おたくの私用につきあっている時間なんかないんだ。
妊娠したとか言ってな、この方を引っ掻きまわすのはやめてくれ。本当に妊娠したってんなら、そういう苦情は伯爵様に言え」
「何よっ、そんなのって酷いじゃない!」
「どっちが酷いんだよ」
「恨むわよ!」
「自分の行動を省みろよ」
「赤ちゃんがいるのよっ!」
「おやおや、やっとお帰りですか。よかった。そいじゃ足もとにお気をつけて」
カイトの対応はしなやかで嫌味に満ちており、僕は心底彼の社交性を見習いたいと思った。
そしてカイトは皮肉な笑顔でまた出口を示したのだが、しかしカイトにあしらわれても、エステルは言われるまま立ち去るようなことをしなかった。
彼女は対峙するカイトの肩にさえ身長が届かないくらいなのに、怒りに身体を震わせ、まるで臆することもなく彼を睨みあげた。
「……何がっ、偉そうに。あんたの話なら聞いたことがあるわよ。アレックス様に取り入ることに成功している、下品な男がいるって、若い貴族たちが噂している……それはきっとあんたのことね。名前までは知りませんけど。
わたしは平民だけど、どこそこの貴族のパーティーに紛れ込むくらいのことはできるのよ。
だから聞いたことがあるけど、あんただって本当はこっちのお仲間なんでしょ? 同じ平民のくせに、偉そうな口をきかないで欲しいわ。
それに知ってるのよ、あんたがどっかの未亡人をたらし込んで出世したんだって話。ギルバート様に口を利けるような権力のある貴婦人の愛人になって……、あんたの出世を妬んでいる人から直に聞いたのよ。あんたはそうやって男娼のような真似をして、それでその未亡人に口利きをして貰って、アディンセル家のアレックス様の側近なんて立場を手に入れたんだってね。
あんたはわたしのことをとやかく言えないくらい汚い男じゃない。それを、わたしを非難するなんて、おかしな話だと思わない? お仲間じゃないの」
エステルがいきなり何を言い出したのかが分からないし、別にエステルの言うことが本当だとは思わなかったが、僕は何となく気になって僕の横に立っているカイトを見た。
するとカイトがそれまでの何処か飄々とした態度とは打って変わった険しい顔をしてエステルを睨んでいたので、僕は慌てて顔を元に戻した。
とても問いただせるような状態じゃないと思ったのだ。確かにカイトは真面目ぶったお坊ちゃん風の服装や髪形をしていても、その通りの人物には見えないところがあったのだが、このときはまるで世間の裏側までを知り尽くした、俗悪な人物であるようにさえ思えた。
「なるほど、いい根性をしているな。俺をも脅迫すると言うわけか」
苛々したような仕草と、呻くような低い声でカイトは言った。
「それならこっちとしても遠慮はいらないというわけだ。女だと思って優しく言い含めてやろうと思っていたのにな。
それを、言うに事欠いて人様を男娼呼ばわりとは……、まったくあんたにはつくづく驚かされる。そんな中傷をこの場に持ち出して来るとは、人間たる以上最低限備わっているべき品性ってやつがないのかね。何事にも意欲的なのは結構だが、女の本分を忘れるべきじゃないな。さもないと、痛い目にあう。
おとなしくしてりゃ手加減して貰えるお得な立場を自分から捨てるとは愚かとしか言い様がないが、それでこそあばずれと言うべきか。底なしの馬鹿だからこそ簡単に男と寝ちまうんだろうが、ほんとどうしようもないな、このあばずれ女」
カイトの豹変とも言うべき発言の粗暴さに僕は耳を疑ったが、カイトがまさかこんな反応をするとはエステルとしても思わなかったのだろう。彼女はびっくりしたように表情を強張らせ、それからか弱く泣き出した。
エステルは小柄だったし、そんなふうにうなだれる姿がいっそう小さく思えて、僕は思わず彼女のことを庇いたくなるくらい胸が痛んだ。
カイトは幾ら頭に来たからといって、さすがにあんまり酷いことを言い過ぎていた。それでは君は女にもてないはずだと、もう少しで言いたくなるほど口調も冷たかったのだ。
しかしカイトは特に反省の色もなく更にエステルに毒づいた。
「なんだ? 突然そんな傷ついた顔をして同情を買おうって作戦か? そんな与太話を持ち出せば、俺がびびって遠慮するとでも思ったのか知らないが、俺は売られた喧嘩は買う主義だ。なめたことを言った以上、相応の罵声を浴びせられることくらいは覚悟するんだな。
だいだい俺はその態度も気に入らないんだよ。結婚してくださいお願いしますとでも頭を下げているならばともかくだ、来て早々怒鳴りつける、そして今度は泣き真似ときた。
これはどう考えたって、気の優しいこの方につけ込んでやろうって態度だよな。やることなすこと誠意のかけらもない。恐ろしい女だ。あんたそんなふざけた態度を一度だって伯爵様に取ったことなんかないだろう」
カイトは僕の執務机の横から離れ、エステルに歩み寄った。身体を屈め、怯えてうつむく彼女の顔を覗き込むなり更に脅かすような声を出した。
「自覚がないようだから教えてやる。いいかおたくは誰にでも股を開く淫乱で、快楽と虚飾に溺れる頭の弱いチンピラだ。
そんな女がこの俺を男娼だと? ふざけやがって、自分がやっていることはまさに売春だってことが分からない安っぽい女風情が、責任を取れとはお笑いだ」
カイトはそう言い、彼女の顔の前でいきなり指を鳴らした。それで泣いているエステルはびくっとし、僕はその手慣れた挑発行動に舌を巻いた。
「おい、馬鹿が見え透いた泣き真似なんかするな。人と会話しているときは顔を上げろ。
こんなところまで堂々と強請りに来られる毛の生えた心臓を持っているくせに、ここでか弱い女のふりとは、あんたもよくやるな。
だがおたくは上手く化けたつもりなんだろうが、俺には最初から見えていたよ。あんたはこの上もなく下品な類の女だってな。
どんなにお嬢様然として装っていたって、残念なことに、分かる人間にはひと目で分かるもんだ。本物と、まがい物との違いがね。世の中の男が、すべてアレックス様のようにうぶで純粋なわけじゃない。
少なくともこの俺を、猫なで声を出しゃころっといっちまうような間抜けと思って貰っては困るんだ。だからその姑息な泣き真似はよすんだな。それともアレックス様に対する嫌がらせのつもりなのか?」