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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第9章 冷酷なる伯爵
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第92話 姦淫問答(1)

僕は自分の私室に他人を入れることが好きではなく、本当のことを言うと召使いたちが出入りしていることさえ気に障ることがあるほどだった。子供の頃から彼らなしの生活は送ったことがなかったので、いなくなる不便は想像するのも難しかったが。

でも執務室に関しては、いろんな人間が出入りすることを諦めていた。だからここには本当に大事な本は置かなかったし、大事な物を持ち込むこともなかった。

高価で品はいいが大して思い入れのない調度品と、部下や来客たちが若い僕を甘く見ないようにわざわざ重厚な装丁の外国語の辞典なんかを、ふた抱えもあるほどの本棚に詰め込んで並べていた。僕は自分に兄さんのような威厳がないことを知っていたからだ。不逞の来客を脅かしてでもこちらの言うことを聞かせる迫力というものを持たなかった。だからこれは言わば武装だった。

そして高い教養や知性を重んじる者ほど、こうしたものに価値と威力を見出す傾向があった。家柄とそれに付属する権力だけでは、僕が若いということは補い切れない欠点となってしまう場合は多かったのだが、けれども知性があるということは、人間としての地位の高さの証明となってくれるものなのだ。

そしてこの国の貴族社会では、それが共通の価値観だった。貴族の男子が互いの無教養を晒すべく足を引っ張り合うような場面が見受けられることも、教養というものが、いかにその人間の価値を左右するものかということを物語っているだろう。ここでは知性を磨いた者こそが、大いに尊敬されるものなのだ。賞賛され、喝采を送られ、女性たちだって頭のいい男に惚れるものだ。馬鹿な男では到底世の中を渡っていかれないから、彼女たちは男の教養の高さについて敏感なはずだった。

だから僕はエステルに確かいろんな話をして、僕が頭がいいことを分からせようとしたことがあったはずなのだが、何故か退屈な反応をされて泡を食った記憶が甦った。タティに話したときはすごく喜んでくれていた話のほとんどが、エステルには通用しなかったのだ。

そのとき僕は単に興味が違うのだろうと解釈をした。確かに女性というものは、あまり虫等の生き物を好まないものだからだ。大陸史は愚か、サンセリウス史にさえまるで見識がないことには驚いたけれども。それからしばらくして、タティは僕のことを好きだから、どんな話でもああして喜んで聞いてくれていたのかと、解釈することもあった。

でも今から思うとそれは、根本的なところで違っていたのではないかと思い始めていた。

つまりエステルは僕が他者と係り合いを持つにあたって大前提としているこの共通の価値観と思っているものを、最初からまったく持ち合わせていなかったのだ……。

彼女は男の知性なんかには、たぶんまったく興味なんてなかったのだ。彼女はそんなところに魅力なんか、全然感じない人種だったのだろう。

だからこそアディンセル家の居城内執務室、所領六州における行政活動の本拠地であり、こうして難しい本が意味もなく壁を占めている部屋にいてなお、まったく動じることも媚びることもなく、自らの主張を展開できているのだ。

ロビンを部屋から追い出した後、間もなく別の文官によって執務室に連れて来られたエステルの要求とは、先刻のカイトの猜疑心に満ちた失礼とも思える予想よりも遥かに高かった。

そのあまりの内容に僕は硬直をしたが、それを聞いたカイトが、僕の執務机の左側に立ったまま失笑している姿が見えた。


「ですから、結婚してください! アレックス様の赤ちゃんが出来たのよ!」


ああ、きっとこの世界のいかなる秘境を生涯をかけて探索したところで、これほど容易に相手を恐怖に陥れる呪いの文言はみつからないだろう。これは恐らく蛮族の秘宝の中に眠る怪しく魅力的な太古の呪いに匹敵した。そして僕はその恐るべき呪いに実際にやられてしまったごとく、完全に血の気を失っていた。

室内に通されたエステルは、少々厚かましいと言ってもいいような強い態度で最初からその一点張りで、僕は妊娠させられたと言って被害を訴え怒っている女性に、結婚の要求を突きつけられていたのだ。


「だから、責任を取ってください。だって貴方の子供なのよ! 私のお腹の中に、貴方の赤ちゃんがいるのよ! だから責任取って、わたしと結婚してください!」


僕はもはや頭の中が真っ白になって、エステルに何を言えばいいのかということを、考えることさえもできなくなってしまっていた。

よりにもよって何とも思っていないどころか、もう縁が切れたとすら考えていた女の腹に自分の子供が宿ってしまったというこの酷い状況によって、日々の細々した悩み事も、タティを傷つけてしまったことや、マリーシアへの恋心さえもすべて吹き飛んでしまったそのときの僕は、たぶん見るも無惨な抜け殻だったことだろう。

たとえ恋敵が絵に描いたような白馬の王子様だろうと、それでも心の中に淡く思い描いていたマリーシアとの様々の幸福な場面が、二度と修復不能な瓦礫と化して、音を立てて崩れ落ちていくのをそのときの僕は感じていた。

まともに話をすることさえもできずに、執務机についたまま呆然としている僕に代わって、カイトが妊娠した女性に対して発するには少々辛辣すぎる幾つかの質問をしていた。

例えば日頃の素行とか、経験人数、それは直前まで交際していた兄さんとの子供ではないかとか、僕と関係を持った前後に他の男と寝ているんじゃないのかとか、その類のことだ。


「アレックス様の子供だわ!」


エステルはとうとう気色ばんでカイトに抗議した。


「どうしてそんな失礼なことをあんたに聞かれなくちゃならないって言うの?

わたしがアレックス様と寝たのは確かだわ、それはあんただって知っているでしょうっ!?

わたしはアレックス様と寝てから最後、誰ともしてないんだからこれは間違いなくアレックス様の子供なのよっ!

それなのに、どうしてわたしの言うことを信じてくれないのよっ!」


カイトによって辛うじて僕に施された理論武装は、エステルのその生々しくも強烈な証言によって呆気なく崩壊し、僕は自責の念に押し潰されそうになって両手で顔を覆った。

もう逃れようがなかったのだ。もうどうしても逃れようがない。

僕が彼女を妊娠させてしまった!


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