第91話 冬季前夜(2)
「エステルが、僕を強請りに来たって言うのか?」
「そうです」
カイトが何を言い出すのかと思い、僕はぽかんと口を開けた。
戸惑って彼を窺うと、カイトは特に躊躇うこともなく頷いた。誰かを中傷したい意図は彼の表情にはなかったが、僕はカイトの言いがかりのような懸念にはさすがに同意できかねた。僕は憶測で他人を悪く言いたくなかったのだ。エステルがそんなことをするとは思いたくなかった。そしてカイトの言うことはあまりに誠意に欠けていた。
「アレックス様は、お気づきになりませんでしたか? 彼女を見ていて」
「気づかなかったかって、何?」
「まあいろいろありますけど、強いて挙げるなら貪欲さ」
「僕は想像で人を悪く言うのは好きじゃない……」
僕は彼の言うことが分からずに首を左右に振った。
するとカイトはそうですかと言って、彼の考えを淡々と話し始めた。
「エステル嬢ってのはね、あれはまずアレックス様に恋愛感情は持ってないです。まあその辺は貴方としてもお分かりだったと思いますが。もし彼女が貴方を愛しているなら、あの夜貴方と関係を持った後、まったく音沙汰がないなんていうことはまずあり得ないです。控えめな女なら男からの連絡をいじらしく待つなんてこともあるでしょうが、あれはそういうタイプじゃない。ものにしたいと思った男を、逃さないでしょう」
それで僕は、エステルに最初に出会ったとき、いきなりキスされたことを思い出した。思えばあれが僕のファーストキスだったのだが、見知らぬ男にいきなりそんなことをするなんて、確かに彼女は僕が知っている他の女性たちならば、さすがにやりそうもないことを僕にしたのだった。
「貴方より閣下のほうが上等の男と見て態度を変えた、そういうこともありましたね」
思い出したくもない酷い仕打ちと苦い記憶を思い出し、僕は眉を寄せた。
カイトは相変わらず僕を注意深くみつめながら、冷静に続けた。
「ですから本日の要件とやらも、貴方が恋しくて来たわけじゃないでしょう。子供が出来たので金や生活保障を寄こせと、十中八九こういう話なのだと思います」
「で、でも……、それって強請りになるのか? 通常のことじゃないのか?」
僕が言うと、カイトは答え難そうな、何とも曖昧な表情をした。
「いえ、まあ、良識で考えればそうです。それが人として正しいですよね。
でもよく考えてみてください。それは貴方の子供ではないかもしれないでしょう。一緒に暮らしているのでもないし、交際して、愛しあっているのでもない。何処にも証拠がないんですよ。エステル嬢が嘘を言っているのかもしれない。妊娠しているということさえ嘘かもしれない。彼女が身ごもっているのは他の男の子供かも。それなのに貴方が補償を与えるのはおかしな話です。
しかし寝たのは事実だから、百歩譲って、彼女の勇気ある行動も分からない話じゃない。が、その場合、やはり本来抗議や要求を向けるべきは閣下であって貴方ではないんですよ。子供が出来たと言ってその支援なり補償なりを要請するべきは、定期的に肉体関係を持ち交際相手であった伯爵様だ。
それなのに、交際相手でなかった、酔った勢いで一晩寝ただけの貴方のところに来たというのが、彼女の人間性と言いますか……、誠意によって動いているのではないという姿勢が見えるのです。
彼女は間違いなく貴方の人のよさにつけ込もうと考えていると言っていいでしょう」
「……でもそれは、兄さんと別れた後に、僕と寝たからじゃないか……?」
「だとしても、どの面下げて来られますか? 交際相手の弟のところへ。俺には、鋼の神経を持っているとしか思えない。
そうそう、彼女は伯爵様から手切れ金を貰っていることを、あの夜自分で認めていたでしょう」
「ああ、うん」
「ということは、既に金銭面では困っていないはずなので、彼女の背景に生活苦という悲劇はないということを覚えておいてください。無駄に同情をしないように。はっきり言って俺より金を持ってます」
「確かに……」
僕は話を聞きながら、カイトは随分冷たいことを言うものだと思ったが、やがて交渉のために、動揺している僕に強制的に理論武装をさせているのだと気がついた。彼はもう、僕の側近としての仕事に入っていたのだ。人間は、直前に見聞きしたものを引用しやすい。やっぱり彼は頭がいいのだと思った。少なくとも頭の回転は抜群だった。
それともカイトの家族を殺された話を聞いて、主人であればこそ力強く彼の支えとなるべきところを、みっともなく泣いたのが余程頼りなかったせいだろうかとぼんやり思った。
「俺の考えではね、あのてあいは、簡単にいい思いをしたのが忘れられないんです」
否定とも肯定ともとれる態度で、考え深げに彼は言った。
「閣下も罪なことをなさるもので、安いドレスを着てパーティーに潜り込むのが精一杯の平民女を、ある日突然上流貴族の娘並みの待遇で扱うもんだから、こういうことになっちまうんですよ。
彼女のこれまでの行状から言って、はっきり言って誰の子供か分かったものじゃないんですが、妊娠という重大事由を言い訳に、またいい思いができると踏んで近寄って来たんでしょう。
しかし一度手切れ金を渡された以上、そうそう閣下にゃ近づけないことは彼女も重々理解しているってわけです。だからより容易に陥落できるであろう貴方のところへ来た、この線が妥当です。繰り返しますが愛情からではない。目的は厳然たる物欲。そして更なる金です」
「……」
「まあ何にせよ、アレックス様じゃきっと彼女に押し切られる気がしますから、話のほうは基本俺がするのでいいですね?」
僕は情けない顔のまま頷いた。
「では、俺はこれからエステル嬢と交渉をするにあたって、この件に関するアレックス様のご意向を聞いておく必要があります。俺はそれに従って話を進めますが、貴方はこの話をまったく歓迎していないというスタンスで……いいんですよね?」
僕は胸の中に湧き上がってくる泣き出したい気持ちを堪えながら、再び頷いた。
「了解しました」
カイトは執務机に手を置き、身を屈ませて不安な僕に視線を合わせた。
「お任せください」