第90話 冬季前夜(1)
ロビンがカイトに説明を求めていた。
「あの、どういうことなんですか? どういうことなんですかっ?」
「いやあ、どういうことなんでしょうねえ……、なにぶん俺にもさっぱりでして」
「つまりアレックス様はあの女性と、そういう……いけないことを……、したっていうことなんでしょうか……」
「ぎえーっ、いえいえいえっ、そんなことはありませんよ、そんなことは断じてありません。それにいけないことって何です? いけないこと、いけないこと? はてさて俺にはとんと思いつかないな。
ロビンちゃん、そもそもそれは聞き間違えっていうことはないんですか?」
「いいえ、こんなことを聞き間違えるはずはありません。私だって……」
「ああ、そうですよねえ……」
そして未熟な僕は心を込めて真っ先に神様に祈っていた。
頭が混乱してまったく思考が纏まらないその頭で、必死に許しを乞い、そんなつもりじゃなかった、そういうことを……。
冬の嵐、そう呼ぶに相応しい出来事だと、随分後になってから僕はこの午後のことをそんなふうに考えたものだった。
行動には常に責任がともなう。特にこの種のことには重い重い責任が。僕はこの日、そのことを身をもって、ほとんど激痛を持って思い知らされることになったのだが、そんな簡単なことが、そのときの僕には意外にも理解できていなかったのだ。
僕は若く、ひたすらに無責任でもあり、たとえ相手が妻にしようと考えている女性でなくても性交を行えば当然の帰結として起こりうるこのような事態のことを、生物学的に当然のことと分かっているのにも係わらずまず想定していなかった。いや、想定できないわけではないのだが、まさか我が身に起こるなどとは、ゆめ思ってもいなかったのだ。
顔をあげると、たぶんややこしい展開になるだろうと判断して、カイトが予めロビンに執務室を出て行くように言った直後だった。
「あの女性は、きっと嘘を言っているんだわ。そうに決まってる。だってアレックス様に限ってそんな、そんなことっ」
好奇心なのか社会正義のつもりなのか、自分も是非居残って、議論に参加したいという意思を表明するロビンのことを、少々てこずりながらカイトが部屋から追い出したのだ。
「酷いわカイトさん、お願いよ。私だってもう子供ではないのよ」
「すみません、でも何でもないんですよ。これは貴方が心配されるようなことじゃない。
こういうことはなんと言いますか……、そう、たまにいるんです、アレックス様をものにしようって浅はかな女がね。きっと何か勘違いをしているんだろうとは思うのですが、なにぶん金持ちの独身貴族には宿命なんでしょうね。
そうそう貴方はお部屋にでも戻って、紅茶でも飲んでいらしたらいかがです? いえ大丈夫、お気遣いをどうも、しかし夜にはすべて解決していますから。ええ」
その扉を閉ざした後で、さすがのカイトも少し余裕のない表情で僕を振り返った。彼は頭を掻きながら、参ったというような素振りを隠さなかった。場の空気は緊迫し、僕にはもはやまったく余裕がなかった。
「いやあ、まったくこんなときに限ってロビンちゃんが応対に出ちまうとはね。間が悪いにもほどがある。
取り敢えず当番の騎士に頼んで部屋に連れて行かせましたけど、こりゃもう無茶苦茶なことになっちまうところだ。
いやはや、それにしても子供って、本当ですかね……」
「……」
僕は真っ青になっていて、言葉が声にならなかった。
別の人間がエステルを執務室まで連れて来るのを待っている間、僕はゆったりと机につき、兄さんみたいに毅然としているつもりだったのだ。だけど僕はどうしても兄さんのようにはできなかった。どんなに大丈夫だと自分に言い聞かせようとも、指先や、それに全身の震えが止まらなくて、こんなことで震えが止まらない自分自身に対して更に動揺し、幻滅して、とにかくまったく冷静な気持ちを保てなかった。
「大丈夫ですかアレックス様。ぶるっちまってるそのお気持ちは分かりますが、あんまり態度にゃ出さないようにしてくださいよ。でないとつけ込まれる」
「……」
「んー、まあその何つうか」
「たった一回で……、そんな馬鹿な……。
カイト、僕はどうすればいい……、こっ、子供だなんて……」
「いえ、貴方の子供かどうかは分からないですよ」
僕が呟いていた弱音に被せるように、カイトはいきなりそう言った。
「えっ?」
それで驚いて僕が顔を上げると、カイトはともすればまったくふてぶてしいとさえ取れるような態度で、思ってもみないことを僕に進言した。
「どうぞ冷静になってください。これは単にエステル嬢が妊娠したというだけの話なので……アレックス様は、彼女の妊娠とは何等無関係かもしれない。無関係かもしれないのに、貴方がご自分で落ち度があるようなことを認めちまってはいけません。それはとても奇妙なことでしょう。違うかもしれないのに。
これは飽くまでもエステル嬢が妊娠したというだけのことで、貴方の子供と確定した話じゃないんです。
それなのに最初からそれを認めるようなことを言っては駄目です。冷静に。数学の数式のことでも頭に思い浮かべてください。経済論でも、何でもいいですが、とにかく世界が終わったようなお顔をしていてはつけ込まれます」
「でもカイト、僕はエステルと……」
「それでもです。目に見える証拠がない以上、貴方の子供ではない可能性を信じてください」
カイトはそう言って、しばらく黙って僕のことを見ていたようだったが、僕はどうにもカイトの言うことが正義に反していて、しかも薄情に思えて飲み込めずにいた。
僕が困り果てていると、彼は静かに言葉を続けた。
「これはね、こういうのは、世間で言うところの所謂強請りって言うんです」
「強請り……!?」
「ええ」