第89話 訪問者
「失礼します」
そこへ、ほとんどノックと同時に足早に室内に滑り込んで来た者がいた。
紅茶にたっぷりとミルクを注いだような色合いの長い髪を背中に揺らした、十八歳の美少女秘書官だった。
甘い香水の香りがして、彼女の存在はいつも僕に対応を困らせた。年下の女なんていうものは、僕にしてみれば何を考えているか分からない、言語さえ異なる外国人にも等しいものだったのだ。女の人には丁寧に接するのが紳士というもの、そのことさえきちんと遵守していれば、間違いはないだろうと思うが、もし変なことを言って機嫌を損ねさせたらどうしようとか、不用意に泣かせたらどうしようとか、そういう不安が常に頭の中にあって落ち着かなかった。
ロビン相手にこれでは、もしマリーシアと話ができる立場にあったとしても、僕はきっと何を話したらいいか分からないだろうという現実に気づかされる。
ロビンの気配は高貴だった。その日、彼女はまるで夜会の夜にフレデリック王子が纏っていたのと同じような色の服装をしていた。思い出してみると、彼女はいつも大抵そうだった。只の偶然なのかもしれなかったが、彼女はよくそういう色の服を好んで着ていた。
まだ少し夜の闇が残る黎明の青い上着とスカート。耳には薔薇の花を模った金のピアス、膝丈のスカートの裾から覗く白いレース、可愛いブーツにも薔薇、そして香水の香りはいつも決まってオールドローズ――、薔薇の紋章を掲げる王家に忠誠を誓う者ならば彼に心酔していたとしても不思議はないが、関心を持って見てみると、何だかやたらとあの若い王子を連想させる服装ではあった。
薔薇の夜会で僕らを振りまわした挙句が、実は兄さんに許可を貰って早々に伯爵邸に帰っていたなんて顛末をふと思い出した。
何故それを僕に報告しないんだと叱ったら、彼女の言い草はこうだった。
「少しは心配してくださると思ったのに……」
心配していたから探したんだと僕は思ったが、ロビンの雰囲気がそれを押しとどめさせた。
彼女は確かに凛としていて、少女ながら、男に軽く扱われることを許さないような気品があり、しかもそのときはどういうわけか僕に心底がっかりしたような顔をして僕を見上げていたのだ。
どうして僕が君にがっかりされなくちゃならないんだと、僕は心の中でまた思った。ロビンが僕に何を期待していたのか知らないが、扱いづらい娘だというカイトの評価は非常に的を射ていた。何しろ年下の癖にどうにもお高くとまっている感じがして、僕に取り入って来ようとしないので、僕としてもどう接していいかが未だに分らない、少々厄介な存在というのが本音だった。
しかしロビンは彼女を見た人間が異口同音に美人だと評するだけのことはあって、その場にいるだけで何かと人目を惹く人気者ではあったのだ。それがどれほどの威力かと言えば、彼女はあまり愛嬌を振りまく性格でないにも係わらず僕の執務関係の人間の受けがとてもよく、ここではいまやアイドルのような扱いとなっていた。
タティが僕の妻になるかもしれないことについて、気に食わないだ何だとボロクソに言っているような連中さえ、ロビンのことは素直に称賛していた。
「どうしたんですロビンちゃん?」
ロビンをちやほやする男の筆頭として、カイトが挙げられた。
ロビンが僕の側近として着任した当初や、恐らく年末の夜会の頃まではカイトがロビンをこれほど気にすることや、ましてやちやほやすることはなかったように思うのだが、どうしたことか近頃では、若い女性と話をするだけでも喜んでいる中年男もさながらの態度が目に余った。
カイトが女に親切なのはいつものことだったが、しかしこれほど過剰に特別扱いすることも珍しいので、僕はカイトの好きな女というのは、このロビンのことだったのではないかと思っていた。
本来おしゃべりな彼がそれをいつまでも僕に言わない理由も、ロビンのほうではまるでその気がないということが、分かり易いほどに分かる態度しか取らないから、とても言い出せないでいるということなのだろう。何しろ、見込みのない恋をひけらかすことほど惨めなこともないものだ。マリーシアのことで、僕はその惨めさを日々味わっていた。
カイトが非常に親切に彼女に問いかけると、ロビンは困った顔をして小さくかぶりを振った。僕に用があるからここへ来たのに、カイトがしゃしゃり出てきて迷惑がっていると言っていい態度だった。
「あの、待合室のほうに、アレックス様にお会いしたいという人がいらしているんです」
「ふむ、お会いしたい人? こんな吹雪の中を、何事でしょうね?」
ロビンの困惑をどうにか酌み取りたかったのだろうが、カイトの声色がますます優しくなったのが、何とも現金なものだと思いながら、僕はその様子を見つめていた。
ロビンはカイトの態度になおさら困惑の度合いを深めながら、視線をカイトから僕に移し、それから何だか恨めしそうな顔をして僕を見た。
僕は、ロビンのことは生憎と何とも思っていないのだが、女の人に潤んだ瞳でみつめられるということに耐性のない僕は、その何とも魅力的な態度に少々動じた。確かに彼女はとても端整なのだ。視界に入れば、思わず視線をとめずにはいられないほどに。これで髪の色がもし金色だったなら、恐らく僕のところに配置される以前に一通り兄さんの餌食にされていたことを断言できるほどの大変な美人だった。
もしかすると、ルイーズにも負けていないんじゃないかと思われるほどの美貌なのだが、その上に彼女には少女特有のあどけなさや幼さがあった。
それで僕は、ロビンのサファイアのような瞳にふと吸い込まれそうになったが、たぶん横でカイトが妬ましい顔をして僕を見ているんだろうなと思って、急いで我に返った。
確かにロビンは可愛らしいのだが、僕はそれ以上にカイトには幸せになって貰いたいと思っているから、もし彼がロビンのことを好きだということなら、上手くいかせてあげたいと思う気持ちのほうが強かったのだ。
ロビンはカイトのことをあまりそういうふうには思っていないのかもしれないが、彼がどんなにいい奴で、信頼のおける、健気で、何と言うか愛おしい男なのかということを知れば、きっとカイトに対する今のような中年親父を見るような誤解を改めてくれることだろう。
カイトはそれまでの酷すぎる人生を思ったら、このくらいの美人をお嫁さんに貰う幸運に恵まれてもいいと僕は思うし、二人が相思相愛になってくれたら、僕は何としてでも兄さんを説得して、カイトの政略結婚に関する問題くらいは解決してあげようと思ったのだ。
ところが彼女は僕が考えていたことなど意に介さぬと言わんばかりに、やがてこう言って僕を一気に顔面蒼白にさせた。
「アレックス様の子供を妊娠したって、だからどうしても会わせて欲しいってお話なのですけれど、それ……どういうことなんですか?」