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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第9章 冷酷なる伯爵
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第88話 いじけ虫と梟と現実と(4)

「何だよ、やっぱり憶えているんじゃないか。まったくもう、どうして僕はそう信用がないかな」


やがて結局はカイトが悲惨な彼の過去のことをほとんどすっかり憶えていることを悟って、僕は再び憤然とするに至った。

それまでに幾つかのジョークをはずしたことと、また僕の機嫌が悪くなったことでカイトはうろたえていたが、僕の気分はもっとだった。結局カイトは僕のことを、まったく信じてなんかいないということだったのだ。


「いやいやいや、そういう話ではなく……、これは単にもうどうしようもないことだからですよ。アレックス様だけでなくて、誰に言っても仕方がないからです」


カイトは幾らか不本意そうに答えた。


「だってそうでしょう? 悲しいけど、どうしようもない。だから言わないだけです。信用していないとかいう次元ではなくて」

「それで、そのまま諦めてしまうのか?」

「諦めるんじゃなくて、単にどうしようもないんです。例えば俺が過去に戻ってその場面に立ち会えるなら、たぶん、十人くらいの私兵でしたから、母親や妹たちを守れたかもしれないでしょう。父親と協力して、いえたぶん協力なんかしなくても、俺一人で何とかすることはできたかも。でも過去に戻るなんてことはできやしないことです。そして当時は九歳ですから」


カイトは何気なさを装って、またさらっとそんなことを言っていた。でも僕には、そんな言葉が大して考えもせずに出てくるということは、カイトがきっと何度もそうやって心の中で過去に戻って、泣きながら家族を助けようとしたんじゃないかということが分かって、思わず涙ぐんだ。


「……僕、九歳のときはクリームパイを……どうやったら夕飯を食べないでお菓子を食べられるかを考えていたんだ。それが僕の関心事だった。

摘みたての野苺でババロアを作って貰おうと思って、裏の森に行こうとすると、護衛がたくさんついて来て、僕の周りを歩くんだ。野うさぎ一匹僕に近寄らせないためにね。彼らを君に貸し出せればよかったのに……」


僕が目を押さえると、カイトは僕の顔を覗いて僕を慰めた。


「あああ、泣かないでくださいって。ねっ。貴方はお優しいから。俺のためにそんなふうに泣いてくれた人は初めてですよ。

そういうご性格だから、閣下も、閣下の周りも貴方を大事に扱っているんです。必ずしも子供扱いじゃなくてね」


「君は諦めることに慣れすぎなんだ」


僕は呟いた。目を拭って顔をあげ、目の前で僕に泣かれてさすがに困惑しているカイトの顔をみつめた。


「やっと分かったよ。君はいつもいつも、いろんなことを諦めて来たんだ。君の掴みどころのない態度だって、つまりそういうことだったんだ。そうなんだろう? でも、どんなことだって、諦めるべきじゃないんだよ」

「でも諦めるってことを学ばないことには、気持ちに折り合いをつけられないものですよ。

貴方だって、そういうのはもうお分かりのはず。お父上様やお母上様のことを、貴方だってちゃんと諦めているでしょう。マリーシアのことにしたって」


僕は苦い顔で頭を振った。


「分かってるさ。君に言われるまでもなく、マリーシアがオーウェル公子の魔術師なのでは単純に側に近づくことさえ難しいだろうし、それができたところで性悪公子を相手に神経をすり減らすはめになるだろう。

だいたいそれ以前の問題として、僕がマリーシア目当てでいることを、兄さんに読まれてしまって……、怖い顔して諦めろって睨まれたんだ。マリーシアは王子の女性だから、馬鹿なことをしてアディンセル家の立場を悪くするつもりかって。厳命だって言われたよ。もう八方塞がりさ」

「厳命ですか、それは……閣下が貴方にそんな言い方をされるってことは、よっぽどってことでしょうねえ」

「カイト、僕だってそれは分かっているんだ。この問題が意外にもとても重大で、僕にはもう、諦めるしか選択肢がないってことは」


カイトは理解するように親身になって何度か頷いた。


「ああ、どうして世の中って、こう上手くいかないんだろうね」


僕は理由の分からない居心地悪さを感じて、息を吐き出しながら言った。


「マリーシアの身分じゃ、どう考えても王妃になんかなれっこないから、どんなにフレデリック様に気に入られていたってお妾になるのが関の山なんだ。フレデリック様はそういうのを囲うタイプには見えなかったけど、殿下御自身が母方の血統に問題があるから、彼は好きな女性を妻にすることは認められないだろう。国内基盤を固める必要もあるだろうし、お妃はまず確実に有力公爵家の姫君たちの中から選ばれると思う」

「ふむ」

「僕ならマリーシアをお嫁さんにできるのに……」

「それは……つらいところですね。お話をお聞きしても、俺には何とも妙案が思いつかないのですが、それでも、貴方が本当に彼女をお好きなら、ずっと心の中に秘めていらっしゃればいい。

恋は叶わないからこそ美しいとも言います。そういう生き方もきっと悪くない」

「諦めろってことか?」

「諦めるのとは少し違います」

「……タティを捨てる気かって言わないのか?」


僕が問うと、カイトは頷いた。


「だって貴方はたぶん、タティを捨てやしないでしょう。結婚するかどうかは分かりませんが、そういうことのできない方だと思ってますよ」

「……僕は、自分の正体が分からないよ。自分では、もっとましな男だと思っていたんだ。良識的で誠実で、他人を思いやれる感受性、親切な自分というものを頭から信じていた。

兄さんみたいに遊んだりしないで、一人の女性だけを一生大事にしようって子供の頃から思っていたんだ。聖なる父と良心に恥じない生き方をしようと思っていた。それなのに……」


そして僕は再びすぐ横にいるカイトを見た。とても情けなくていたたまれない気持ちで。

この時点でやっと僕は、カイトに話の内容をすり替えられて、誘導されていたことに気がついたからだ。カイトの境遇の話が、いつの間にかまたしてもマリーシアの話にすり替わっていたのだ。

誰にでも土足で踏み込まれたくない領域というものがあり、僕がシェアのことを誰にも秘密であるように、僕はカイトにとってはこれがその一つなのだとようやく理解した。

でもまた意図もあっさり扱われたことには僕はとても遺憾な気持ちでもあった。自分の単純さ加減に少しばかり傷つきながら、頭を振って彼に言った。


「君ならどうする?」

「ん、俺ですか?」

「そう。君が僕の立場なら、どうするだろう。やっぱり手の届きそうにないマリーシアのことは諦めて、タティと結婚するか……それとも別の考えがあるなら聞かせて欲しい」

「んー」


カイトは腕組みして少し考えた後、ふと僕に笑った。


「俺ならどっちも欲しいかな?」


僕は不満を訴えた。


「それができるなら僕だってそうしてるよ。世間がそれを許して、マリーシアもタティも機嫌よくしていてくれるなら僕だってそうしたいさ……。

でも実際にはそんなわけにはいかないだろう、二人の女性に調子のいいことを言うなんて、それは相手のことを不真面目にしか考えてない女たらしのすることだ。僕は現実的な意見を求めているんだ、脳内ハーレム在住の男の意見じゃなくて」

「それなら答えは出ているでしょう、マリーシアは貴方のものにはなりません。マリーシアは王子様に夢中で、王子様もマリーシアが恋しいと証言されている以上入り込む隙がない上に、閣下には禁止命令を施行されちゃったんでしょ。逆らったら、怒られちゃいますよ」

「分かってるよ、そんなこと。兄さんは二十歳にもなる僕の恋路に口を挿むとは、本当につくづく鬱陶しい性格だと思うけど、彼が言いたいことは分かっているつもりだ。

でも僕はマリーシアに運命を感じたんだ、タティというものがありながら、マリーシアと出会うことがずっと昔から決まっていたことのように感じたんだ。

彼女こそが僕の運命の人なんだと思ったんだ。こんな言い方はおかしいって思われるかもしれないけど、僕は彼女のことをずっと前から知っている気がしたんだよ。なんて言うか、すべてがとても偶然とは思えなかった。僕はあの夜、確かにあの場所で、見えない力が働いているように感じたんだ」

「じゃあ、そこまでマリーシアを想っているなら、タティを解放してあげたらどうです?

アレックス様がそうやって延々マリーシアを想っているのを、間近で見せられ続けるのはさすがにつらいでしょう」


カイトの言い分を、僕は否定した。


「いや、それはできないよ、タティは……僕の物なんだし……、タティだって僕の傍にいたいって言ってるんだから手放す理由は何もないだろう?

それに手放したらこの領内の誰もが後ろ指をさすよ、彼女が結婚前に傷物にされたことを知らない人間がいない状態なんだ、放り出せるわけない。タティの性格からいってそんなのまず耐えられないからね。そんな可哀想なことはできない」

「んー、じゃあ、しばらく両方を貴方の脳内ハーレムに移住させてですね」

「カイト……、その発想は幾ら何でもないよ。あんまり非現実的すぎる。それに惨めだよ。もうちょっと真面目に考えてくれ」

「惨めって……、ぐすん、ぐすん」


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