第86話 いじけ虫と梟と現実と(2)
カイトが言ったことは恐らく正論だった。そして僕はむっとしていた。
カイトに正論を言われたことでむっとするということは、僕はやっぱり彼のことを少なくとも脳みその分野では自分より劣っていると思っている、そういうことなんだろうと、また窓外の吹雪を見ながら思った。
でも問題なのはそれだけではなくて、それよりもずっと問題だったのは、僕の気持ちをカイトが理解しないということだった。
僕はカイトの話を聞いて、心底彼のことを可哀想だと思ったし、それは高い身分にある貴族たちが平民の暮らしぶりを嘲笑するようなものでは決してなく、そういう上から他人の不幸を見下ろすような気持ちではなくて、仲間を思う純粋な気持ちだったのだ。仲間を助けたいと思うそういう気持ちだった。
それなのにカイト自身にそれを否定されるなんてことが、果たしてあっていいのだろうか? ここはデイビッドを罰してやろうという主人の言葉に、感謝するのが筋なのではないのか? それともカイトはここのところ彼に冷たくしていた僕に、仕返しをしているということなのだろうか?
そうなら僕は彼と上手くやっていく自信なんてなかった。そんな意地悪なことをやるような人間と、とてもこの先やっていくことなんてできない。素直にずっと年上の人間を配置して貰ったほうがまだ気が楽だった。そのほうが気兼ねしなくてもいいし、僕には向いているということは分かっていた。もしかするとカイトはカイトで僕のことを生意気だと思っているのかもしれないが、でも僕はどうしたってカイトのことを兄さんのように思うことはできないのだ。
どうやってバランスを取ればいいのかが分からなかった。他人とのつきあい方が分からなかった。特に、よかれと思って好意からした提案を、こうやって真顔で否定された直後には。
子供の頃、幾ら連中が低劣だったからと言って、軍属の子弟の奴らとまともに向き合わなかったつけが、ここにきて巡って来ているような気もした。勿論、全面的に奴らが悪いのであって、僕は悪くなかったが。
僕が執務机の後ろの窓のところで考え事をしていると、カイトがまたちょっと機嫌を取ろうとするように調子よく声をかけて来た。
「アレックス様、吹雪の中に、何か視えるんですか? 精霊とか。
雪の精霊は、イメージとしては女性って感じがありますけど、実際にはどうなんです?」
「……姿は必ず決まってるわけじゃない。等級もあるだろうし。僕には視えない。魔法の契約をしなかったからか、それとも僕には最初から視る力はないのかもね。興味があるならルイーズにでも聞いたらいい。ルイーズは……いろいろ視えるそうだ。ついでにバスタブに誘って貰えるかもしれないよ」
僕が皮肉を言うと、後ろでカイトが微笑したのが分かった。
「いやいや、俺は相手にされてないですよ。かえって貴方のほうが好かれています。彼女の貴方を見る目は、ときどき見たこともないような親愛に満ちていますから」
「世辞を言うなよ。ルイーズは君には抱きつくけど僕には抱きつかない。それがすべてを物語っているじゃないか。
まあもっとも、気持ちがある相手には、かえって恥ずかしくてそういうことができないって考えもあるけどね」
「きっとそうですよ」
「やっぱりそうかな……、実は僕もそうじゃないかなとは思っていたんだ、よく考えてみると彼女はやっぱり僕に気があるとしか……、いや、でも駄目だよ、僕はマリーシアが好きなんだから……、第一、勘違いだったら格好悪すぎる……。
そのての話は、ここではきっと一晩で笑い種になるよ。僕がエステルに振られたときみたいに。最近では、君が僕の胸倉を掴んだ話みたいにね。この城の連中ときたら、本当に暇人ばっかりなんだ」
「我ながら、何ということをしてしまったのかと思います。本当に申し訳ありません」
ふと、カイトが神妙に言った。
「……別に、その件はもう水に流すって言ったんだ」
僕は背中を向けたまま答えた。
「あの話は、色々と脚色されつつありますね。昨今のアレックス様は、使用人の間でも人気者ですから。特に女の使用人に。貴方の一挙手一投足に、皆興味津々なんでしょう」
カイトがまた明るい声を出した。
「クライドの話じゃ、君も割と人気があるようなことだったけどね」
「俺が? ほんとに?」
吹雪に目をやりながら僕は頷いた。
「クライドっていうのは、性格がいいのか悪いのかいまいち分からない奴だけど、この件で嘘を言っても彼に何の得もないからね。本当だろうと思うよ。
君はいつも女にもてないなんて言ってるけど、高望みしなければ結構相手はいるんじゃないかと思うけど。
はっきり言って生涯ヴァレリアだけなんていうのは、過去のそういう経緯があるのでは、僕に言わせれば拷問に近いよ。君、本当に愛する人を別にみつけたほうがいいかもね。でないと人生ってやつに救いがなさすぎだ」
「アレックス様が、俺に浮気を勧めているんですか?」
「カイト、僕は理解がある男だよ。不貞は男としたって許されないことだと思うけど、君の場合は神様だって許してくださるだろう。親兄弟を殺した男の娘と夫婦になれなんて狂気の沙汰だ。
勿論僕としては諸悪の根源を――、つまりデイビッドごと潰すべきだと思うけどね……」
しばらくの沈黙があった。僕はまた窓外の吹雪に目をやり、カイトの反応を気長に待った。できることならこの件に関する建設的な意見を。僕の提案を彼は無視するべきじゃなかったのだ。
「しかしまあ、そんなことを言っても始まらない。ここはひとつ男らしく、女の話はどうですか」
でも少しして聞こえてきたカイトの返答に、僕は静かに失望した。
「女の話か。まったく……、まあいいよ。例えば? カボチャみたいな下着が気に入らないってことかい」
また皮肉を込めて言うと、カイトはそれには気づかずに笑いながら頷いたようだった。下着は小さいのがいいとか、彼なりのこだわりを言っていた。
僕はそれを聞き、何となく首を撫でた。
「そんなこと、君が気に入らなくたってどうしようもないと思うけどね。恋人でもない女のスカートの中身を見たいなんて考えが、そもそもせこいんだ。ほとんど変態だよ。しかも安い変態。世も末だ。そのうち結婚したら、自分の妻に好きな下着を穿かせればいい……」
僕はそう言いながら、カイトの結婚相手であるヴァレリアお嬢様が、到底夫の言うことなんか聞きそうにない性格だったことを思い出した。あれに言うことを聞かせるのは至難だろう。少なくとも僕には無理だと思った。
「娼館に行けばいい」
僕は静かに言い直した。
「女を買って、服を脱がせればいいんだ。買春はポリシーに反するにしても。ヴァレリアにできないなら、他の女に見せて貰えばいい。
ああいうところは、ちょっと聞いたところによると、行くのであれば高い金を払う店のほうがいいらしいよ。上等の店のほうが。そのほうが女の質がいいらしい。どんな美人でも、使い古された女たちっていうのは、二、三年もすると格下の店に払い下げになるそうだ」
「おやまあ、そんな内情を何処で聞いたんです? 誰に?」
腹立ちついでに最近仕入れた知識をひけらかしてやろうと思ったのに、カイトが既にそれを知っているような様子だったので、僕はむっとした。
「ああ、君は知ってるってわけか」
カイトはそれを認めた。
「そりゃ、まあ。多少はね」
「僕だって、何もこういう話をまったく知らないってわけじゃない。兄さんの側近連中の間じゃ、そんな話題に事欠かない。僕はこれまで気づかなかったけど、ちょっと注意して聞いているだけで、誰かしらがとんでもないことを言ってるものだよ」
カイトは黙って頷いたようだった。
「それにこの前も兄さんが、そういう店に行ったり、女を買うなって言ったんだ。病気を貰ったら困るってね」
「なるほど」
「僕がそんな人間に見えたのかな……」
「そうでなくて、ご心配をされたんでしょう。ああいうところはほら、そういう場所である以上、どんな高級店でも清浄な女ってわけにはいかない。向こうも商売ですからね。やっぱりいろいろあるわけで。例えばそう金のない男でも、大勢で一人の高級娼婦を買って、一晩かけて順番にとか……」
聞いたことがない話に僕が唖然としてカイトを振り返ると、カイトは何かまずいと思ったような顔をして、それ以上内容を教えてくれることはなかった。
僕がまた窓辺でうつむいていると、カイトが横に来てまた明るい声で僕に話しかけた。
「ま、ま、そんなお顔をなさらずに。大丈夫、そういう場所に行きさえしなけりゃ、まず貴方が係わり合いになることはない世界なんですから」
「僕を子供だと馬鹿にしているんだな」
僕は呟いた。
「君、本当は僕のこと馬鹿だと思ってるんだろう」
「ええっ、どうしてそうなるんです? 風俗街の知識がちょっとだけなかったなんてことで。全然いじけちゃうようなことじゃないじゃないですか。
寧ろ俺は、貴方の育ちのよさに憧れますけどね。だってこんなことは、一度話を聞いちまえばもう分かることなんだし。アレックス様、もう俺の話を聞いてそのことを分かったんでしょ?」
「……いじけてないよ」
「だったら。できれば、そろそろご機嫌を直して欲しいなあ。ねえねえっ」
「……、兄さんに、僕に余計なことを教えるなって言われたのか? そろそろ僕が興味を持ったり、調べに行くといけないからって」
「ああ、いやあまあ……、そうだ、じゃあ例のマリーシアって娘の話はどうです? 彼女、可愛かったですね、結構な美人でしたよね。たぶん十五か十六かそのくらいだったですかね。
そんな年齢であれだけ美人なら、もうちょっともしたらすごいことになるんじゃないでしょうか」
「まったく君は誰の部下なんだよ」