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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第9章 冷酷なる伯爵
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第85話 いじけ虫と梟と現実と(1)

まだ午後三時をまわったばかりだというのに窓の外は薄暗く、そこに世界があることを覆い隠すほどに大気は荒れ狂っていた。サンセリウスは大陸最北の国ではなかったが、冬場寒気の吹き荒れる地域は国土の半分にも及んだ。

僕はその窓辺に立って、誰かのように清々しい心と精神を持たない僕は、只ひたすらに傷心に浸っていたのだ。

それは自分の人生に起こったわけでもない対岸の他人事ではあった。世界のどんな場所よりも安全であることが望まれる場所、自分が暮らしている家の中に、見知らぬ他人が踏み込んで来てある日家族を殺すなんてことがこの世にあるものかと――、僕の想像力では、それは到底再現しきれない光景だったのだ。恐らくそれは恐ろしい出来事に違いないのに、僕にはそれを想像するということさえ困難だった。

だけどカイトが嘘を言っていることはなかったのだ。彼の話には、その場にいる人々の同情心を煽ったり、驚嘆に巻き込むための浅はかな誇張がなかった。そもそもカイトは無駄話は抜群に多いが、しかしそこに作り話を挟み込むようなほら吹きの性格はなかったし、彼の極めて平然とした表情からその心情を読み取ることはできなかったが、でもカイトが人よりずっと苦労をしていて精神的に人よりずっと老成しているように見える部類の人間であるとしても、でも彼もまだ若かったのだ。彼の物語を語るとき、ほんの些細な声の震えまでを完全に自制できるほどには、彼もまだ感情というものをコントロールできていなかった。

そして僕はカイトの殺された妹のうち、上の妹の年齢が、僕やタティと同じだったことを知った。

カイトは終始、まるで他人事のような素知らぬ様子を崩さず、またその酷い悲劇の詳細な事柄や感想については、もうあまり憶えていないということだった。

だから彼はそのことについて特に何も言わなかったのだが、先日カイトがタティを庇ったことには、僕に無下にされて泣いているタティに妹の姿を重ねて、それでどうにか妹を庇いたいような、そういう心理もあったんじゃないかと密かに僕は思った。

僕としてもこうした事情を知ってしまった以上は、いつも世話になっているカイトのためにも、僕の力で何とかしてあげられるものならしてあげたいものなのだが、アディンセル家の当主でない僕には、所領内に暮らす貴族といえどもウェブスター家の処遇に口を挿めるような権限はなかった。それでも兄さんがご機嫌のいいときを狙って、どうにか話を動かせないかということを、僕は考えていた。


「……ぼーっとして、さてはまた何か考えてますね」


窓外の吹雪を眺める僕の背中の向こう側から、カイトのため息が聞こえていた。

僕がこうしてカイトのことに親身になっていることが、面倒臭いと言わないばかりの、そういうため息だった。


「俺のことならいいんですよ、何も貴方が気に病むようなことじゃない。

さっきの話はね、アレックス様があんまり許してくれないから、取りつく島がないもんだから、つい言っちゃっただけで……つまり貴方の同情を引くためにね。

でもこれは、今では本当に思い出すことさえないような、何でもないことなんです。俺も幼かったので、当時の記憶はだいぶ薄れているんだし。

それに今は、かつてないほど幸せなんですよ。食べる物にも着るものにも困ってないし、理不尽に殴られることもない。寝るとこはまあ、埃っぽいですけど、寝るために帰るだけですし。あそこに住んでりゃ家賃もかからないんだから言うことはありません。

こうして責任のある役割を授かり、貴方の側近騎士としての立派な装備も無償で頂けるし、そうすると羨望の眼差しで見られることもあるし、充実した人生です」

「僕は生まれたときからそんなの当たり前だったよ。寧ろ君の生活はまだ酷いと思う」

「そら、そういう人生もあります」

「……」

「だから、気になさらないでくださいって。そんなことでそんなに深刻になったってしょうがないですよ。ねっ、ほら」

「気にするなって言うのはおかしいじゃないか」


僕は背中のほうでどうにも騒がしくしているカイトのことを、我慢できずに振り返った。こんなときくらい、落ち込んで泣いたって構わないのに、どうして朗らかにしているのか分からなかったのだ。見ると、どういうわけかカイトが笑顔でいたので、僕はますます彼というものが理解できずに頭を振った。


「まったく、君はどうしてそう……、とにかくこんな酷い話を聞かされて、気にしないでいられるわけない。僕は家族を殺された君の過去を聞き流せるような冷たい人間じゃないんだ。

それに、僕はこれを相談と受け取ったんだ。僕も君の主人である以上、君が困っているなら、それを何とかしてあげたいと思ってる」

「そんなこと言ったってねえ……、俺はそのお気持ちだけで十分嬉しかったんですよ。これまでこの話を聞いて、そんな反応してくれる人間はいなかったですもん。感動して、涙がでちまうくらい」

「だったら、その思いっきりへらへらした態度は何なんだ。

だいたいからして君はそうなんだよ、積極的に働きかける割には一歩引いてると言うか。何事においても君はそうなんだ。前から何考えてるか分からないって思ってたけど、それは僕が年下だと思って甘く見てるんじゃないだろうね」

「いやいや、そういうわけじゃないですけども。

んー、弱りましたねえ、そいじゃ、気分転換になんかして遊びましょうよ。あっ、ダーツなんかどうですか。ひょいっとね」


カイトはそう言うや、さっそくダーツをやっているような陽気なジェスチャーをした。それがまるで機嫌を損ねた子供に向けられた少々横暴なご機嫌取りに思えて、僕は憮然とした。


「君が勝つからやらないよ」

「んん、そいじゃ、負けますよ」

「わざと負けて貰ったら、僕が惨めだろう?」

「ふむ、じゃあ雪遊びはいかがです? たまには身体も動かさないとね」

「カイト、外は吹雪いているんだぞ? それに、僕は子供じゃないんだ。雪遊びなんて、そんなの子供のやることだ」

「そうですか? 結構楽しいと思いますけどね、童心に帰れて。きっと楽しいと思うけど」


そう言って、カイトがまたあんまり笑顔を見せるので、僕もつられてつい笑顔になりそうになるところを、しかしそんな単純さに引っかけられてなるものかと思い、殊更に眉を寄せた。下に姉妹がいたのなら当然なのかもしれないし、カイトとしても意識的にやっているわけではないのかもしれなかったが、彼のやり方はまるで幼い人間を懐柔しようとするようで、まったく面白くなかった。

既に恋愛関係にある女に対してなら分からないでもなかったが、只のご機嫌取りでまっすぐ笑顔なんか向けられても、かえってこっちが恥ずかしくてしょうがなかったのだ。


「まったく君は無邪気だね。でもいいかい、大人の男っていうものは、雪と戯れるものじゃない。ブランデーを片手に雪景色を眺めるものなんだよ」


僕は例のごとく頭の中に兄さんを思い浮かべて、ちょっと気取って言った。


「ブランデー片手にねえ」

「そうさ。そして過ぎ去りし日々に思いを馳せ、暖炉の前でこうグラスを傾けて、酒の色なんかじっと眺めるんだ。夢の中を覗き込むようにね。すごくロマンを感じるだろう? 僕はそういう男になる予定なんだ」

「なるほど、そうですか。じゃあカードゲームはどうです?」


するとカイトが僕の話をあっさり流したので、僕は文句を言った。


「カイト、僕の話、ちゃんと聞いてた? 僕いますごく格好いいこと言ったんだよ」


カイトは頷いた。


「ええ、勿論。すごくいい考えだと思いましたよ。それが貴方の美学なんですね。何とも切ない情景が思い浮かぶようでした。

でもアレックス様、今は遊ぶ相談をしているんでしょ?」


その台詞に、僕は呆れて言った。


「違う、遊ぶ相談じゃないよ、君の境遇を改善しようって話じゃないか。君は人の話をいったい何だと思って聞いているんだ。デイビッドをやっつける方法を考えるんだよ」

「雪合戦で?」

「だから違うってば、どうしてそこでふざけるんだ」


さすがに僕が焦れながら言うと、カイトはふと真面目な顔になって、ついでに声色も少々咎めるような感じになって、こう応じた。


「だって男爵様は、アディンセル家に先代伯爵様の時代から二代に渡って仕えている人物ですよ。現役で閣下の側近の一人ですし、現実的に言って、俺より存在は重いです。

閣下はどちらかを選ぶというならまず男爵様をお選びになるでしょう。その辺りのことはね、閣下はとてもシビアですよ。たとえアレックス様のお願いだとしてもね」


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