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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第9章 冷酷なる伯爵
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第83話 お坊ちゃまと苦労人騎士(1)

胸倉を掴まれたことで、僕の態度がぎくしゃくしていることを、カイトとしても分かっているんだろう。僕らはそれからも淡々と通常業務をこなしながら、近年にない距離感があった。

実はカイトは無分別にも僕の胸倉を掴んだその翌日には、プライドのないことに僕の機嫌を取ろうと謝罪したり、冗談を言ったりして笑わせようとしていたのだが、僕はその機会をことごとく潰していた。当然だ、伯爵家の人間であるこの僕に対してあんな無礼をするとは、これはどんなに謝ったって許されることじゃなかったし、僕の心が負った傷はそれくらい大きかったのだ。

ジェシカがカイトを批判していたことは本当に正しくて、これは喩えるならジェシカが兄さんの胸倉を掴むようなものなのだ。そう考えれば、これが絶対に考えられないことであることが誰にも分かるだろうし、兄さんだったらたとえ相手がジェシカであってもその場で斬り捨てていることだろう。

だから僕はここのところずっと彼の謝罪を受け入れずに放置し、くだらない冗談には凍えるような視線を送ってやったりしていた。

僕にとっては誰とも会話をせずに一日を終えることなど苦でも何でもなかったが、他人と騒ぐことが生き甲斐のようなカイトにしてみれば、渾身のご機嫌取りさえ無視される状況はさすがに堪えているとみえた。するとカイトはやがて冗談すら言い出そうとしなくなり、それでもこのお調子者はどんな状況であっても目に見えて落ち込むということがないのが実にふてぶてしくて憎たらしかったのだが、それでも心なしか元気がないような顔をして今に至っていた。

本日も天候は悪く、窓の外はいつしか吹雪いていた。

酷い天気のために訪問客はないし、兄さんも好きなことをやっているのでその午後はまったくやることがなかった。

部屋に帰ってタティと顔をあわせることを想像し、僕はすぐにその選択を取りやめた。彼女の笑顔は痛々しくて見ていられなかったからだ。そうさせたのは僕なのだが、だから余計に見ていられなかった。

たぶん僕がタティに酷いことをしているのだということは分かっていたし、逆のこと、もしタティが他の男に気が向いて僕をおざなりになんかしようものなら、僕は彼女を寝室に押し込んで一生外に出さないだろうと思った。反省したと泣いても許さないだろう。タティが誰の物かを毎晩思い知らせてやるだろう。自分がそんなことをされたら最悪だろうが、でも僕はアディンセル家の人間だから、逆の場合なんてものはないのだ。


「……カイト、青本を持って来い」


ふと僕は執務机についたまま、横柄な態度でカイトにそう命令した。

カイトとしてもたぶん胸中穏やかではないだろうが、それでも僕が声をかければ、機嫌よく応対した。勢いで僕に喧嘩を売ってしまったまではいいものの、やがて頭を冷やして自分の立場というものを思い出したのだろう。

カイトの処遇を決めることができる僕に首を切られて、ウェブスター家へ帰されるのが何しろ怖くて、とにかくこれ以上事態を悪化させまいとしている見苦しい意図が彼の態度から分かりやすいほどにじみ出ていた。

間もなくカイトは本棚から本を選び出し、従順で友好的、それに少々腰の低い態度で僕に指定された経済理論書を持って執務机の前までやって来た。


「どうぞ。またお勉強ですか」

「……そうだよ。悪いか?」


差し出された分厚い本を受け取りながら、気難しく僕は答えた。


「いえ、ああ……、熱心だなと思いまして」


僕の冷たい態度に恐れをなしたのだろう、カイトは困惑気味に微笑し、それからさっそく得意のおべっかを言い出した。


「アレックス様は、本当に勉強家でいらっしゃる。何ヶ国もの外国語の本が読めるんですから、賢い証拠ですね。俺なんて母国語で精一杯なのに」

「へえ、そうなんだ。でもこれは公用語だから、まったく外国語の本じゃないけどね。

カイト、もしかして君、公用語が分からないなんてことはないんだろうね。まさかそんなことはないだろうと思うけど、もしそうなら、貴族の男子としてはちょっと問題あるんじゃないか。

まあ、僕には関係ないけどね。暇なだけだよ。外は吹雪いているしね」


僕が気まぐれに嫌味混じりの返事をしてやると、馬鹿にされたことなんて気にもしなかったのか、水を得たようにカイトは勝手にしゃべり出した。


「ほんと、ここのところ天候が悪いですね。出かけるにも一苦労です。居城前階段とか、それに広場の辺りは油断するとスケートリンクなんですよ。まあ今朝は若いご婦人方がこぞってひっくり返ってて、なかなか見応えがありましたけど。

俺はあのひらひらしたカボチャみたいな下着は反対ですね。スカートがめくれても中がさっぱり分からないから。もっとぴったりしたのがいいと思うんですよ。俺が近づく前に当番兵が助けていたのでよく分からなかった」

「……君も大概にするといいよ。男がみんな君と同じだと思われたら迷惑だから」

「俺の故郷は南部なので、そこでは真冬でもこれほど吹雪いたりはしないんですよ」

「ふうん」

「でも朝起きると、やっぱり水たまりには氷が張っていました。家には使用人を使う余裕は当然なかったですし、俺は長男なので、毎朝家の横にある小屋に薪を取りに行くんです。でも、貧乏だったから、どうしても薪が湿って」

「ああそう、じゃあ家族に会いたいだろうね」


僕は苛々してカイトの話を遮った。


「休暇が欲しいならやるから、家族に会って来たら? そんな遠まわしに言わなくてもさ、僕は話の分からない男じゃない。

里帰りしたいならそう言えばいいじゃないか、それとも僕がおまえをこき使っていることへの反発のつもりか? 本ぐらい自分で取れって皮肉とか?」

「お気に障ったのならすみません、でも、そんなわけじゃないんですよ」

「だいたい家族の話なんて……僕は大嫌いなんだよ。団欒とか、そういう自慢を聞くのは鬱陶しいんだ。故郷に帰りたいならどうぞ何日でも気が済むまで行って来たらいいだろう。僕は構わないよ」


そして僕はカイトを睨みつけた。何しろカイトの身の上話なんかには、僕はまったく興味がなかったのだ。それに、ウェブスター男爵のところで酷い扱いを受けたことには確かに同情するが、でもそれまでは彼は家族というものに囲まれて暮らしていたのだ。

僕はたった一人の家族である兄さんが、僕よりも女を可愛がっているとき、いつも城の中でぽつんと取り残されていた。一人で夕食を取ることも多かった。とても孤独で荒んだ気持ちで、時折使用人が自分の子供たちを可愛がっているのを、両親のいない僕はいつも独りで眺めていなければならなかったのだ。僕は父上や母上がいる生活というものがどういうものか、具体的にはまったく知らなかった。

それなのに、両親と過ごした幸せな経験なんか、そんな話は聞きたくもなかった。

ところが僕がそう言って腐っていると、カイトがこう言った。


「いえ、もう死にましたので」


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