第82話 城内放浪
先日のマリーシアの一件で、僕はカイトに胸倉を掴まれたことが、どうしても許容することができずに険悪な気持ちを抱くに至っていた。
そしてそれからというもの、僕はタティだけでなくカイトとも顔をあわせづらく、タティが常駐している私室にも、カイトが常駐している執務室にも居づらくて、できるだけ近寄らないようにこそこそして時間を過ごしていた。
僕こそが二人の主人であるはずなのに、どうして僕が小さくなっているんだろうと気がつく瞬間もあるが、気がついたからと言って僕の性格が変わるわけじゃない。
ジェシカとクライドの会話が、姉弟なのにまるで対等であることを少し羨ましく感じながら、僕は二人と別れた後も、居城二階の廊下をぐるぐる歩きまわっていた。本当は執務室に戻らなくてはならないのだが、戻ればカイトがいるからどうにも足が向かないのだ。
僕は廊下を歩きながら壁に意味もなく手を沿え、ジェシカとクライドは兄さんと僕ほど年が離れていないから、あんなに意見を言いあえるのだろうということを考えた。
兄さんと僕だと、兄弟と言うよりはほとんど親子に近いんじゃないかと思った。基本的に兄さんが僕に対して上から物を言ったり、叱ったりして、僕は別に兄さんが恐いわけじゃないけどその顔色を見ながら対応をするのだ。兄さんの機嫌がいいかどうかを、いつもものすごく気にしている自分にうんざりする。
勿論僕は兄さんが恐いわけじゃないけど……兄さんは未だに僕に子供らしさや従順さを求めていて、そこからはずれ過ぎると子供らしくしろなんて理不尽な内容で怒るのだから対等になんかなりようがない。
それとも普通の男なら、いい年になったら、兄には力ずくでも対抗を試みるものなのだろうか? 家の中における自分の立場を確保するために。兄弟が他にいないので僕には想像もつかないが、体格で負けていても君臨する兄に挑む弟なんてものも、世の中には存在しているものなのだろうか。
僕がこんな性格になってしまったのは、そもそも兄さんが横暴で強すぎるから、こうしないといけなかったんじゃないかと思うこともあった。幾ら何でもタティやカイトから逃げまわるなんて、これは我ながら最悪だった。
でもカイトは酷い養父のもとで育っても、ああいうふてぶてしい性格なんだから、やっぱりこういうのは持って生まれたものなのかもしれない。
フレデリック王子はきっと周りからちやほやされているだろうに、しかもまだ子供のくせにまるで人格者のようだった。もしかしたら兄さんのように外面のいい演技をしているだけかもしれなかったし、彼にはきっと優れた教師がたくさんついているのだろうが、それを勘案して余りある寛大さや、思いやりを持っていたのだ。彼はきっと年齢を十歳年上に言ったとしても、顔さえ見せなければ誰にも気づかれないだろう。
そしてマリーシアは可愛かった……。
あのとき、彼女はフレデリック王子に終始見惚れていたのだ。あの夜僕に出会ったことなど、僕が目の前に存在していたことなど、彼女にとっては無意味なことだったことは明らかだった。
あの夜の場面を、どれだけいいように解釈したとしても、マリーシアにしてみれば僕の存在なんて、目の前に見慣れない置物があるのと同じようなものだっただろう。彼女は僕に、気がつきもしなかった。只の一度も。興味も示さなかった。
どう考えてもこれは、僕の一方的な横恋慕にすぎなかったのだ。
それなのに僕の頭の中は、あの日以降、マリーシアのことでいっぱいなのだ。
諦めなければいけないと、あの女たらしの兄さんにさえ命じられているのに、どうしてもどうしても吹っ切れないのだ。
「……」
僕はとても情けない気分でその場にしゃがみ込んだ。泣き出したい気持ちで。こんな気持ちを抱えていても、僕はきっと報われることなんてないだろう。何せ相手がフレデリック王子では、僕には勝てるところなんて何一つ見当たらない。家柄も、血統も、外見さえも完敗なのだ。
それにフレデリック王子は、兄さんやトバイア様でさえ少々手を焼いている様子だったあの性悪のオーウェル公子を黙らせる気の強さだって持っていた。初対面の僕やカイトに尊大な態度を取ることもなく、立ち去り際までとても親切にしてくださった。
彼はまるで僕が理想とする強さと優しさを併せ持った人間である上に、おまけに彼は、彼のほうが僕より四つも若いのだ! もっとも男の場合、若さが必ずしも魅力に結びつくわけではないことは、兄さんが証明してくれていたが。
敢えて僕が明確に勝っていたものを挙げるとすれば身長だ……、でもあの若い王子はこれからも当分は成長期だった。
僕は叶わない恋と、逆立ちしたって勝ち目のない完全無欠の恋敵のことを思い出し、そのまま本当に泣きそうになったが、やがて気を取り直したように立ち上がった。本当はまったく気を取り直してなんていなかったのだが、たまたま近くにいた召使いたちが、慌てて近寄って来たからだ。
「これはアレックス様、お具合が優れないのですか?」
「まあ大変。この寒さですもの、お風邪を召されたのではありませんか」
「いや、大丈夫。僕は丈夫なんだ……、そう、いまやそれだけが取り柄と言っていい……」
僕はてのひらを彼らに向けながら立ち上がると、そのままあてもなく歩き出した。
のらりくらりと遠まわりをしていたが、とうとう執務室の前に到着してしまった。
胸倉を掴まれて以降、僕はカイトの顔もまともに見ていなかった。暴力に纏わる恐怖心というものは、じわじわと後からやって来るものだ。目をあわせればまた喧嘩になるんじゃないかという気持ちが、僕を普段以上に臆病にさせていた。
それに言っては何だが、僕には同じ年代の同性とつきあうことなんて、やっぱり本当に無理なことだったのだ。
同性の人間でつきあいのある者と言えば、兄さんとか、教師とか、後は兄さんのご機嫌を取りたいばかりに確実に僕に親切な兄さんの取り巻きくらいのものなのだ。取り巻きと言っても側近から出入りの業者まで様々だが、だいたいは若くても先ほどのクライドくらいには年上の人間ばかりだった。
だから彼らはきっと人づきあいの何たるかを心得ているのだろうし、僕としても自分が若くて、権力者の身内で、甘えが許されるという環境のもとで接していたから、まさか喧嘩なんていうものをしたこともなければ、その後処理をどうすればいいかなんて、本当にさっぱり分からなかった。
子供の頃、苛めっ子連中に苛められたときは、子供だったから兄さんを頼ることもできたのだが、まさかいい大人になってカイトと仲違いしたその尻拭いをしてくれとは、口が裂けたって言えなかった。
それにこれはあまり認めたくないことではあるのだが、カイトはたぶん喧嘩が強いのだ。
それは、兄さんに武芸を見込まれるくらいだから当然の話ではあるのだが、別に武器を持っていなくても彼は戦い方を知っているものと思われた。御託を並べる言い方をすれば急所の押さえ方とか、切断すべき血管だとかを身体でもって心得ているのだろう。
先日胸倉を掴まれたとき、腕力の強さもそうだが、その手際のよさに僕は半ば呆然としていたものだった。彼は僕を殴ったりはしなかったけれども、明らかに喧嘩の仕方を知っている手慣れたやり方だった。僕にはそれがすぐに分かって、本当のことを言うと恐かった……。
兄さんであればどんなに怒っていても僕に乱暴したりしないというある種の信用のようなものが、他人であるカイトには望めない恐さと言えば適切だろうか。
僕は同年代の人間と向き合って、正面から戦ったことがない引け目と言えばいいのか……。
とにかく男同士の喧嘩には、その後暴力が予定されている影がちらつくのが何とも不快でならなかった。何もカイトが乱暴者だとは言わないが、タティとなら確実に口喧嘩で終わるところを、カイトの場合はその後の更なる暴力による諍いを想定しなくてはならない、これが平和主義者の僕にしてみればとんでもない脅迫だったのだ。
でも、どんなにカイトが腕力を振るうかもしれないことが恐いと思っても、僕はカイトより立場が上なので、弱みなんか見せてはいけないのだ。本当は怯えているなんてことを、ほんの少しだってあいつに感じさせてはいけない。僕は彼をひれ伏させてやらなければならないのだ。どっちが上かを分からせてやらなくてはならないのだ。
そうとも所詮はカイトだって、昔僕を苛めた奴らと大差がないのだ。あいつらは狂犬と同じなのだ。乱暴でがさつで良識が欠損し、意地悪で恥知らずで最悪の人種なのだ。だから僕は奴らには常に権力を振りかざして誰が主人かを理解させ続けなくてはならないのだ。家畜に教え込むみたいに。分からせなくてはならない。
でも僕は彼らと違って成熟した大人なので、基本的に暴力反対なんだ。決して取っ組み合いになったらカイトに勝てそうもないから、それを恐がってるわけじゃない。あのときカイトに胸倉を掴まれたことが、ショックだったわけじゃないんだ……。