第80話 冬に想う(1)
別の日、僕は秋葡萄の間で一人で朝食を取った。
気まぐれに召使いと世間話をし、彼女が僕に好きな食べ物を聞いてくるのでトマトだと答えた。好きな季節、好きな本、嫌いな食べ物、でもこうした会話に何の意味があるのか分からず、結局話は長続きしなかった。
早朝からちらちらと雪が舞っている白い景色を眺め、そのままその部屋の暖炉をつついて過ごした。一人で過ごす時間はとても快適だった。誰とも無駄話をしないで済むからだ。
召使いたちが、朝食を終えた後ずっと一人で暖炉をつついている僕のことを、奇妙な顔をして眺めているのが分かっていたが、僕は気にしなかった。今が冬でなければ、こんなときは蟻でも観察しに行くのだが、今は何処も雪が降り積もってどうにもならなかった。
それからすっかり朝食の片づけられたテーブルに戻って、何社かの新聞をいつもよりもたっぷりと時間をかけて読んだ。
昨晩は兄さんが女性を泊めたらしいので、そういうとき、僕は普段なら朝食は私室で取るし、新聞もやっぱり私室か執務室で読むのだが、少なくともこの二週間の間、僕の生活スタイルはがらりと変化していた。
午前十時をまわっても、いつもよりずっと几帳面に読み終わった新聞紙を折りたたんだり、温かい飲み物をおかわりして時間を稼いでいたが、やがてロビンが僕を呼びに来たので僕はのろのろと腰を上げた。
そのまま彼女を連れて執務室に顔を出し、僕の遅い登場を待ち構えていたカイトや何人かの行政官たちと打ち合わせをし、そこで出た問題点を持ってさっそく逃げるように兄さんの執務室に向かった。
しかし兄さんの執務室に行くと、そこでも廊下には十名ほどの行列ができていた。待ちぼうけを食らわされているのは、やはりアディンセル家に仕える文官たちだった。
屋内とは言え、廊下なんかに突っ立っていたのでは、じんとした冬の寒さがたちまちのうちに身体に染み込んでしまうのに、どうしたことかと僕は思った。執務室前に詰めている護衛騎士が、これらの行列を前に、何ともやり難そうな顔をしているのも見える。
ややもして、彼らの会話の内容から、これは兄さんが女を連れ込んでいて、公務に支障をきたしているのだということを悟った。どうも昨夜の女を彼は昼近くになっても帰していなかったのだ。
ここでは兄さんに意見を言える年長者はいても、実質親のように叱れる人間はいないから、生活態度にしろ所領の統治方針にしろ、兄さんはごく若い頃から自分の考えだけで物事を決められる立場にあった。
それにしてもこれは兄さんが見せる久しぶりの執着だと思い、僕は顎を掴んだ。
文官たちが僕に挨拶するその相手をしながら、ふと見ると、廊下の奥のほうには恐らく執務室から閉め出されたのであろうジェシカもいた。彼女は彼女の弟と話をしているところだった。
二人もまた僕の姿をみつけると、呼吸を合わせたように僕に対して恭しく挨拶をしたが、ジェシカの顔にはいつもの余裕がなかった。
「女性を連れ込んでいるのか」
僕は彼らに近づき、ジェシカに対する配慮の意味もあって、少し兄さんを非難してみせた。
するとジェシカは苦々しさを表情にほんのりと出しながらも微笑して、それを認めた。
「結婚するつもりもないのに手を出すなんて、どうかしているね……」
「もはやライフワークですね」
ジェシカは冗談を言う余裕はあるようだった。それとも扉の向こうで女といちゃついている兄さんの姿が目に浮かんで、やけくそなのかもしれなかったが。
「舞踏会でひっかけたそうです」
するとジェシカの弟、フィーロービッシャー家の次の当主となる予定のクライドが、場違いとも思えるような清々しい笑顔で僕に説明をした。
「ついこの間も、閣下に御用達のお店にご一緒させて頂いたとき、久々の上玉をみつけたのだとおっしゃっていましたよ。
ほら陛下の夜会でダンスを踊るとき、何度か選んでいた女性がいたでしょう。長い金髪の」
僕はあまりそんなところは見ていなかったが、そう言えば金髪美人を連れていたことを思い出した。でも兄さんの相手は、いつでも大抵金髪美人なので、特に感慨はなかった。たまに気まぐれに髪の色にこだわらないこともあるようだったが、こんなことを観察している自分はいったい何なんだという気分にさせられるので、僕はもう兄さんが誰を連れていようと気にしないことにしているのだ。
もし、まかり間違って妻にしたい女性がいるというお話を兄さんが持ってきたなら、そのときは僕としても彼女の名前や人となりを知ろうと思うが、大抵はそんなことをしても無意味だからだ。半年もすればほぼ確実に、彼女たちは飽きられる運命にあった。
「何でもいいけど、業務に支障をきたすのは迷惑な話だね」
僕はまた、ジェシカの心情を思ってそう言った。
それに気づいたらしいジェシカが、また苦笑いを浮かべた後、僕に小さく微笑み返した。
「伯爵様は、この時期はおつらいのですよ」
「つらい?」
「ええ」
ジェシカは頷いた。
「つらいって、冬が嫌いって意味じゃないよね、猟銃持ってはしゃいでいるんだから……」
でも僕がたずねても、彼女はそれ以上何も答えなかった。
代わりにクライドが僕に話しかけた。
「それはそうとアレックス様、あれなんですって、最近カイト殿と派手にやらかしたんですって?」
「カイトとやらかした?」
身に覚えがなかったので僕が首を傾げて言うと、クライドは頷いた。
「ええ、この城の召使いたちの間で、噂になっているのを聞いたのです。掴み合いの喧嘩をなさったってね。
貴方にもカイト殿にも、結構ファンが多いようですよ。羨ましい限りです」
「ああ、そう……」
それで僕は彼の言っていることを理解した。それはたぶん、二週間くらい前に僕がカイトに胸倉を掴まれたのを、誰かが見ていて大袈裟に流布したのだろうと思った。
「いや、やらかしたってほどじゃないよ」
僕は、特に親しくもない相手からの問いかけに対しもごもごしながら答えた。
情けないことに、一方的に僕が胸倉を掴まれただけなのが真実なのだが、それを知られるのはいかにも恥ずかしかったこともあった。
「ちょっと喧嘩になっただけさ。男同士の」
「いい傾向ではありませんか」
すると、たたみかけるようにクライドは言った。
クライドというのは、ジェシカの弟だけあってそこそこ見られる美青年なのだが、日頃から男のような服装をして、化粧以外には必要最低限のお洒落しかしない姉よりもずっと話し言葉や服装が垢抜けていて、しかも三十近い男の割には非常に人懐っこい笑い方をした。
兄さんとはまた別の次元で、女を誘惑することに、まったく苦労しないだろうなという社交的な雰囲気を持っていたのだ。
だからこれは相当に女性に好かれそうな感じだと思うのだが、意外にも彼も未だに独身だという話だった。
「喧嘩もできないような関係は、本物の関係とは呼べませんからね」
クライドは微笑んだ。
「そうかな……」
「そうですよ」