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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第5章 アレックスと夢見るタティ
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第8話 アレックスと夢見るタティ

「別に、それほど好きってわけじゃなかったんだ。

確かにエステルのことを、可愛いと思っていたけど……。

でも、よく考えてみたら、たぶんそんなに好きなわけじゃなかったよ。

それに兄さんの言うことを信じるわけじゃないけど、彼女って見かけよりずっとおしゃべりな女の子でね。

楽しいけど、一緒にいると疲れるって言うのかなあ、上手く言えないんだけど、僕はどうも、もう少し物静かな感じの女の人のほうがあっているかなって思うんだ」


その日、僕が口にしていたのは明らかな負け惜しみであり、言い訳だった。

ただでさえ広大な領地を所有する伯爵であり、容姿端麗な兄さんが人々の注目を集める存在であることは言うまでもないことだ。だけど人々の注意を引くという意味では、この僕もまた、兄さんに劣らない存在だった。

それと言うのも僕という存在が、兄さんと僕の父上である前アディンセル伯爵、誰からも愛され慕われていた温厚で年老いた人物の、晩年に遺した子供であるということが大きく影響している。

彼は六十歳を過ぎてから迎えた四番目の妻との結婚翌年に、ようやく彼の初めての子供である兄さんを得たが、その数年の後、彼の若い妃は不幸にも肺病に倒れることになった。どういうわけか彼の妻がいずれも夭折してしまうことを、父上がどれほど気に病み悲しんでおられたかについては、想像に難くないことだと思う。

以降、彼女は徐々に身体を衰弱させながら何年か病床にあり続けていたが、その彼女が遂に亡くなる前年に僕が生まれたということを、ローブフレッドやヴァエリムス等のアディンセル伯爵家を崇拝している人々は、神々の恩寵と称えるべき奇跡のような出来事として捉えていた。

だから、僕が僕の母上……ギゼル妃によく似た面差しをしていることは、彼らにとって非常に歓迎すべきことで、子供のないまま次々と妻女が身罷るというアディンセル伯爵家に降りかかった悲しみの後に訪れた希望のように思っているふしがあるわけだ。

兄さんの色に対する奔放を誰もが黙認しているのも、兄さんが現在の王宮の主流であるウィシャート公爵の覚えもめでたい有能で力強い当主であるというだけではなく、兄さんの後ろに非業と言うべき人生を送った前伯爵や、歴代の妃たちの存在が見えるからではないかと僕は思う。

父上が天寿を全うされ、アディンセル伯爵の城から死の影が消え失せてしまうと、時代は完全に兄さんのものとなった。

兄さんの生来の勝気で外交的な性格を映しているかのように居城には活気があふれ、若さと喜び、それに未来に対する確かな期待と野心とが城内の隅々にまで満ちあふれた。

人々は、この信頼を寄せるに足る若い伯爵と、彼をこの世に生み出してくれた女性によく似た幼い僕のことを、自分の家族にも等しい関心をもって常に見守り続けていて、それは僕が成人した今でもずっと、続いていることなのだ。

……善くも悪くも。

だからこそ、あのギルバート様が気まぐれに弟の恋人を寝取ったなんていう傍からみれば最高に面白可笑しいこのゴシップが、僕らが住まうこの城内に、広まらないはずはないことだった。

実際ものの数日もしないうちに、少なくともこの城の噂好きな使用人たちとか、伯爵の城を出入りする兄さんの部下たちの間には、確実に話の一部始終が広まってしまっているようだった。

特に僕と年頃の変わらない若い侍女たちが集まって、僕のことを横目で見ながらくすくすやっているのに遭遇してもなお正気を保っていられるほど僕の神経は図太くない。

それで、僕はあまりにも恥ずかしくて、男として、これはもう本当にみっともないことで、兄さんにエステルを横取りされた日からずっと部屋に閉じこもって、膝を抱えて鬱々と日々を過ごしていたわけなのだ。

この世界から消えてしまいたい気持ちで、そんな生活力などないくせに、窓外の、誰も知らない土地にまで逃げ出すことをため息と共に夢想するばかりだった。

この一連の出来事に対するほとんどの人たちの意見は、僕に対して同情的なものだと乳姉妹のタティは教えてくれていた。

アディンセル伯爵のほぼ唯一にして最悪の欠点である女好きは、余程の世間知らずを除いてはこの界隈では誰もが周知のことだ。それなのに、明白な浮気者であることが分かっているのに次々と女性が彼の手に落ちているという現実を見れば、女にこなれた兄さんにかかればどんな女の人だって靡いてしまうということを示している。

だから僕に落ち度はないのだと、タティは繰り返し慰めてくれていた。

そして勿論、そんなことはタティに言われなくても僕には分かっていることだった。

僕にしてみれば生涯の汚点になることがまず確実であるほど悲劇的なこの出来事だが、しかしほとんどの人たちには、現在のアディンセル伯爵家の見違えるような繁栄と健康、下手をすればユーモアさえ象徴する、微笑ましいエピソードとして受け取られているんだろう。

僕が十歳以上も年上の、今では中年に差しかかった兄さんにまんまと恋人を寝取られた、無様で侮りやすい男だと世間に印象づけてしまったことを死ぬほど悩んでいることなど、誰も思いつきもしないに違いないんだ。


「タティ、僕、本当はもう死んじゃいたいくらい酷い気分なんだ」


僕は何だか子供みたいに情けない声で、目の前にいるタティにとうとう本音を吐露した。


「それなのに僕ときたら、エステルを取られたのがつらいのか、恥をかかされたのがつらいのか、そんなことさえもうよく分からないんだよ。

今はとにかく混乱していて……、ただ、死にたいくらいつらいんだ。

どのくらいつらいかって言うと、星空を見ていると、飛んで行きたくなるくらい……」

「アレックス様……」

「駄目だね僕って、こんなことくらいで何日も落ち込んでさ。

タティにも、迷惑をかけちゃったよ。

ああ、何かすっかり気分を変えられるようなことがあればいいんだけど、今はあんまり本を読めるような気分じゃないし、と言って、兄さんみたいに誰かに八つ当たりしたり、無意味に動物を狩るなんて残酷なこと絶対したくないし……」


そう言って、僕は窓の外に視線を移した。空は高く、強い日差しはまだ十分に夏のものだったけれど、雲の流れはそろそろ秋めいてきている昼下がりだった。

僕は部屋の片隅の黄色いソファに身を投げ出して、朝からずっと頭を掻き毟っていたおかげで、何だか寝坊をした朝みたいに頭の中が渦巻いていた。

何か気分転換のためのいい方法をタティから引き出せないかという甘えが自分の中にあることには気づいていたけど、何かに困ったとき、僕は幼い頃からやっぱり乳母の娘であるタティのことを頼ってしまうところがあった。

タティは僕より半年誕生日が早いだけの同い年の娘だったけど、赤ん坊の頃からずっと一緒に育ってきた仲なので、家族みたいに遠慮がなかった。


「そうですねえ、ううん……」


タティは、くるくるの黒髪を後ろに束ね、度の強い眼鏡をかけたお世辞にも美人とは言えない顔立ちをしていたが、それがかえって僕に異性を意識させず、身内の女性という安心感だけを僕に与えてくれていた。

タティは少しの間おっとりと考え、それから僕に視線を戻した。


「葡萄狩りなんていかがですか?

このお城の裏手に、料理長さんの小さな野菜畑があるんですけど、そこには果樹園もあったんじゃなかったかしら。

とにかく伯爵家の方の健康に対して真剣な方で、何でも手作りしなくては気が済まなくて、どんどん畑が大きくなっているの。伯爵様やアレックス様に、美味しい食事をお出しするためだと言って。

アレックス様が収穫したいとおっしゃれば、料理長さんも喜んでそうさせてくれますよ」

「葡萄狩りかあ……、うん、いいね。楽しそうだ。

でも、もう実はなってるかな?」

「確か、早いものは夏の終わり頃には収穫できたはず。

どうしましょう、わたし、見て参りましょうか」

「ううん、いいよ。僕も一緒に行く。

もし葡萄がまだでも、トマトが残っているかもしれないし。

それで、久しぶりにトマトスープを作ろうよ。胡椒とハーブをきかせて、じっくり煮込むんだ。お肉は入れないでね、野菜だけで」

「お夕食に伯爵様にお持ちしたら、きっと喜ばれますね。

伯爵様はアレックス様のお作りになられたものなら、塩味のケーキだって平らげられますもの。

あの気の強い方が目を白黒させて……うふふ、思い出します、子供の頃のこと」


そしてタティは口許に手を当てて小さく笑った。

僕はいつも男らしくありたいと思っているけど、女の人の前ではそれはなおさらのことで、それは幼なじみのタティの前でもそうだった。だから僕はいつもより少し偉そうにして、まるで彼女より年上の男みたいに威張った感じでこう言った。


「だめだめ。兄さんは肉が入ってないと機嫌が悪くなるから面倒だよ。彼は何でも食べるけど、食べながら文句は言うんだからおんなじさ。

だいたいタティ、僕、できるだけ兄さんと顔をあわせたくないんだよ。

そこのところ、分かってる?」


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