第79話 禁止令
冬の庭園は雪に埋もれて、夢の面影を消失させてしまうのだ。
それでも雪の中に踏み入ってしばし庭を引っ掻きまわす。花壇に積もった雪を押し退け、しかし現れるのは、枯死した植物の残骸と凍りついた土ばかり。
シェアとの時間は終わったのだと、もう何度思い知らされたことだろう。彼女は兄さんの玩具にされた揚句、伯爵の愛情を真実と信じて金を受け取らなかったばかりに、消されてしまった愚かな女たちのうちの一人に過ぎない、そのことを、簡単にタティを邪魔だと思ってしまえる今の僕にならば、理解できないことではなかったのに――。
分厚い冬の雲間からしばし差し込む陽を見上げる。雪にまみれた手はかじかんで、息を吹きかけてもそう易々と感覚は元に戻らない。
タティをぞんざいに扱って、せいせいしたのはその瞬間のことだけで、すぐに酷い後悔が僕を苛むようになった。僕の心とは意外にも欲張りなもので、僕はまるで兄さんが複数の女にちょっかいをかけるごとく、タティにもいい顔をしていたかったのだと知った。
僕とはもっとずるくて、不誠実な男だったのだ。兄さんのように悪びれもせずに楽しくそれを実行できているわけではない分、僕の人間性はまだましであると思いたかったが、マリーシアを好きになりながら内心ではタティへの愛着を切り捨てられない自覚のある以上、たぶん大差はないだろう。
でもタティの態度はあれからさすがにぎこちなくなってしまい、僕はあまり彼女に声をかけることができなくなってしまった。
そして僕の恋に舞い上がっていた狂おしい気持ちは何日かの無気力な沈静を経ていつしか深淵の孤独に取って代わってしまっていた。
こんな混乱を巻き起こしてでも恋したマリーシア、彼女に会いたい一心で王宮に出向くという作戦が、遂に功を奏することはなかった。
それでも、僕はどうしても、あの夜以降一度だって会うこともできないマリーシアへの恋しさに、耐えるということができなかったのだ。
暇さえあればフレデリック王子が彼女を独り占めするために隠しているのではないかと妄想し、この数週間を、僕は自分の気持ちを絶え間なく傷つけ続けてもいた。恋とはときに人間から愛や幸福感を奪い、判断力さえ狂わせる恐ろしい魔物だった。そしてとうとう僕は愚かにもアディンセル伯爵である兄さんに、マリーシアについての情報収集をしに行ってしまったのだ。
今から思えばそれは禁じ手だった。色恋沙汰に慣れ親しみ、多くの女性たちと危うい駆け引きを繰り返し、ほんの少しの恋の気配だって見逃さない彼にすべてを見破られることを、そのときの僕はまったく考慮することができなかった。
僕はただ、きっとマリーシアほどの美少女ならば、将来の恋人候補として兄さんが目をつけていてもおかしくないだろうと踏んだのだ。
僕の兄さんというものは、良識か、それとも単なる趣味によるものかは分からないが、未成年の少女たちを相手にしているところを見たことはなかった。それでもいずれ目の覚めるような金髪美女に成長するであろうことが確定的なマリーシアの存在に、彼が気がついていないわけがなかった。
だからマリーシアとは何処の誰で、いったい殿下とはどういう関係なのか、もう愛を誓いあってしまっている関係なのか、王宮に出入りしていて、広い交友関係を持ち、しかもいつでも金髪女を探している兄さんであれば、もう少し詳しい話を知っているだろうと思った。
恋に心を蝕まれていたそのときの僕は、藁にも縋りたい気持ちだった。特に関心もないフレデリック王子の話題にかこつけて、彼の魔術師であるマリーシアのことを何とかして探り出そうとした。
すると兄さんは、僕の予想に反してあれはフレデリック王子の魔術師ではないと言った。
「そうなのですか? では、彼女はいったい……?」
僕がたずねると、兄さんはまずもって何故に僕がそんなことを知りたがるのかと言いたげな顔をしていたが、やがて面倒臭そうに答えた。
「あれはオーウェル公子の魔術師だ。公子の乳姉妹ではないがね。才能を見込まれて、途中から彼の側仕えになったようだよ。
オーウェル公子はあの年で一端の野心家でね。彼はあの娘が王子のお気に入りであることを利用している。勿論そうさせているのはトバイア様だが、フレデリック王子は彼女に会いたいために、よくオーウェル公子ごと王宮へ招いているようだ。
だから、あの娘は到底私が懸想をしていい相手ではないというわけだ。これで納得か?」
「マリーシアの身分階級は?」
「さあてね。まあ、貴族なのではないか……」
兄さんは曖昧に言って、それから僕に何とも言えないうっとりした視線を向けた。
「何です?」
「アレックス。おまえ、彼女に興味が湧いたのか?」
兄さんは、明らかに呆れた口調で言った。
「さては私についてやたらと王宮に行きたがったのも、そのためか」
真相に気づいた兄さんの表情に、微かながら失望と憤慨の色が差したことに慄き、僕は反射的にその問いかけを否定した。
「そ、そんなんじゃありません」
結婚の許可を要請しているタティというものがありながら、他の女に興味が移ってしまっているなんてことを、まさか知られるわけにはいかなかったからだ。
それに僕はタティのことを手放そうと思っているわけではなかった。僕は別に彼女に飽きているわけではないし、嫌いになったわけでもない。タティは僕の言うことをよくきく従順な可愛い女だった。それに彼女は一緒にいて神経に障る性格でもないし、僕の生活の上で必要なことを誰よりも心得ていた。
今だって、言われた通り可愛く着飾っているし、ぎこちないながらも僕の注文通り笑顔でいることも心がけているようだった。それに僕はタティに尽くされると満足できたし、だから彼女には僕に手をつけた女性の面倒を見る義務を放棄しようと思わせる点がなかったのだ。
「アレックス」
ふと兄さんは、よく通る声で僕を呼んだ。そのとき気がついたのが、彼は最初からまったく微笑んでなどいなかったことだった。
兄さんは僕の気持ちを見透かすような厳しい目で僕を見ていて、彼は確かに僕の動揺を見過ごさなかった。
しかしまるでそれに気づかなかったかのように頷いた。
「そうだな。よもやおまえに限ってそんなことはないとは思うが、臣下がフレデリック王子の物を横取りするような真似は、褒められないね。
おまえが何を考えているか私は知らない。しかしながらおまえの主君として、ここは感情に流されやすい若輩者のおまえに一応厳命を与えておく。
アレックス、己の立場を弁えよ。我らが世継ぎの王子の御機嫌を損ねさせるような浅薄な行動は、絶対に許されんことだ。慎みなさい。おまえには残酷だが、あの娘は王子の女だ。もっと言ってやろうか。あの娘はもう身体の隅々まで王子に荒らされている。汚らわしい淫売に成り下がっているぞ」
「……」
「まあそれはさておき、あの若い王子には、いずれ遠からずして地方領主を破滅させることすら造作もない権力が与えられることになる。公爵家でさえも、彼は考えひとつで捻り潰すことができるのだ。無論、そうした専横に反感を覚えた諸侯の結託やそれによる情勢不安、反乱、それに暴君の謗りを恐れないならばだが、私の態度が気に入らないという言いがかりで――、彼はこの私を処刑することもできる。
だからもしアディンセル家を没落させたいとでもおまえが思っているのだとしたら、私は我が所領の守護者として、おまえをそれ相応に処分しなくてはならんよ」
「処分……?」
僕はまだ食い下がろうとしたが、兄さんはそれを認めなかった。
心底から苛々した様子で、執務机を指先で叩き、ため息混じりに僕に言った。
「アレックス。私が言っていることが分からないか。この問題に議論の余地はないのだよ。あの娘のことは諦めなさい」
「兄さん」
「諦めなさい。アレックス、私は物分かりの悪い子供は嫌いだな」