第78話 恋多き人生
兄さんにつき随って王宮を歩けば、そこでは僕が知らなかった素晴らしい人生が毎回のように展開された。通りすがる女という女が、兄さんの容姿の美しさに目を奪われて、うっとりしているのが分かるのだ。
さも気のないように振る舞う女だっていないわけではなかったし、実際彼女たちは兄さんのような遊び人を嫌う堅実な女性だったりするのだろう。それでも、誰もが目を向けるのだ。兄さんが歩くと、女という女が振り返る。まるで引き寄せられるように、恋しているみたいに、あまりにもあっけなく色めき立つ。
長い生涯のうち、せめて誰か一人の女性くらいには愛されたいと願い、必死になっている世間の男たちがこの馬鹿馬鹿しいほどの現実を体験したとしたら、どんな気分がするものだろう。僕は兄さんの横を歩いているとき、こうした気分を何度も味わった。僕が自殺したくなるほどには悲しくならなかったことだって、僕は兄さんの血縁だから、彼を基本的には愛していたし、兄さんが持っている女性に愛される要素のうちの、幾つかを持っているはずだという慰めがあるからだった。
でも実際には、僕はいつでも兄さんのおまけだった。アディンセル伯爵の弟と知ると、いつもの通り余計に大切に扱って貰えたが、女性たちの意図は見えていたので僕は気落ちした。僕が一人で歩いていたら、まず相手になんかされないであろう気取りきった上等の女たちが、絡みつくように兄さんに媚を売っているのはもはや痛快だった。
用事を済ませた夕刻の帰り際でさえ、廊下を歩く兄さんをみつけたルイーズクラスの美女たちが、花のような微笑みで兄さんの関心を引こうと次から次へと寄って来た。世の中にほんの一握りであろう、女性の気を惹く努力をまったく必要としない人種が、こんなに身近に存在していることというのは、ある意味ではとても切ない。
「ああ、さっきの綺麗な人たちは公女様たちだったんですか、お茶会があったんですか」
浮ついた、歯の浮くような甘い社交辞令で女性たちを撒いた後、兄さんは彼女たちの正体を僕に教えた。
「何故結婚しないんです? 出会う女性は誰もがみんな兄さんが好きみたいだったのに」
すると兄さんは困惑した顔で僕を見た。
「アレックス。おまえは幾つだったか」
「二十歳ですよ」
兄さんは頷いた。
「そうか。では寝言は寝て言え」
それからしばらく黙って廊下を歩いた。僕らから少し離れたところを、ルイーズがまるで他人の振りをして歩いていた。ルイーズが兄さんから距離を置いて歩いているのは、王宮で出くわす女性たちの妬みを買わないようにするためだった。兄さんはそうした気苦労などものともせずに、女性に愛嬌を振り撒くのをやめなかったが、それをやめたとしてもたぶん嫉妬を買う意味では同じなのだろう。
僕が後ろを振り返ってルイーズを見ると、ルイーズは笑顔になってひらひらと手を振ってくれた。今日はジェシカはいなかったが、彼女たちはこの意味で日頃からなかなか苦労をしているようだった。
「それにしてもアレックス。これはどういう風の吹きまわしなんだね」
兄さんは通路をすれ違う召使い女の声援にさえきっちり視線で応えつつ、僕に言った。
「何がですか?」
「どうしてまた急に私の出仕について来た。それも一人で」
「別に……兄さんについて、勉強したくて。伯爵見習いですよ……」
僕は適当なことを答えた。
兄さんは苦笑した。
「滅多に領地の外どころか、城の外にさえ出かけないおまえが、どうしてまたそんなことを思いついたんだか。それに勉強をしたいなら、カイトも連れて来いと言ったはずだぞ」
「カイトなんて要りませんよ。あんな奴」
即座に僕は答えた。
「そうか? あいつはおまえの仲よしグループだろう?」
「全然違いますよ。僕にそんなのいないんだ」
「ああ、そうなのか? でも彼は何かと必要だろう」
「必要ないですよ。煩いし、年上ぶるし」
「年上ぶるか。ふっ、なるほどな。しかし実際彼はおまえより年上ではなかったかね」
「でも大した違いなんてないですよ。十歳違うと言うなら配慮をしてやってもいいけど、一つ二つなんて誤差の範囲だ。
それどころか、あいつはガキみたいに煩いんだ。生意気だし、何にも分かっていない癖に訳知り顔で、鬱陶しいったらない。兄さんは僕よりカイトがお好きなんですか?」
すると兄さんは一瞬微笑し、それから僕を見た。
「アレックス、アレックス。おまえのほうが好きに決まっているだろう。まったく何という幼稚な応答だね。二十歳が聞いて呆れるな、うん?」
それから兄さんはこうつけたした。
「だが幾ら年上ぶって口数が多いとは言っても、カイトはおまえより如才ないからな。公務を学ぶのにくだらん私情を挿んで貰っては困る。今度は連れて来なさい」
それからしばらく靴音の響く大理石の廊下を歩き、もう少しで薔薇の王宮を出るというところまで来たとき、何処からか只ならないざわめきが伝わってきて、僕はにわかに緊張をした。
実は僕が兄さんについて王宮に出入りしようなんて思い立ったことには、マリーシアにひと目会いたいという、不純な動機があってこそのことだったからだ。
僕はおいそれと陛下に謁見の叶う身ではなかったので、同様にフレデリック王子とお会いする機会もなかった。しかしマリーシアはたぶんフレデリック王子の魔術師だと思われる以上、僕はどうにかして殿下にお会いする必要があり、思いついたのがこういう場所をうろついていれば、もしかしたら王子殿下がお出ましになることもあるかもしれないということだった。その機会はなかなか訪れなかったのだが、今日は三度目の訪問だった。
冬の夕刻は既に窓外を暗くしていたが、建物の中は何処も赤みのかかった柔らかい光に満ちていた。見ると、廊下を行く召使いや衛兵は勿論のこと、高官連中までが足下に平服を始めていた。僕が兄さんの顔を窺うと、兄さんは僕の予想が的中したことを僕に知らせた。僕も兄さんに倣って、やはり廊下に跪いた。
そして間もなく殿下は御登場されたのだ。僕らの目の前の廊下のすぐ先、通路が交差しているところから彼は現れた。でもそのときお目にかかった殿下は、どうしたことか年末の夜会にて拝見したときとはまったく雰囲気が異なっていた。華麗な容貌は相変わらずだったし、殿下の横顔はため息の漏れる美しさだったが、その顔色は青白く、表情は疲弊していて、まったく揚々としたところがなかった。
先日お会いしたときには、名うての貴公子のごとくあまりにも颯爽としていらしたのに、今日は御体調が優れないのかその華奢な御身体さえ引きずるようにして歩いていた。そのとき彼は二名の従者を連れていたが、そのどちらもマリーシアではなかった。
そしてフレデリック様はそのまま廊下を通り過ぎてしまわれただけだった。
フレデリック殿下御一行が行ってしまわれてから、僕は殿下の御様子がどうにもおかしかったことを兄さんに話した。
すると兄さんも頷き、さすがに思わしくない表情をした。
「おいたわしいことだが、先祖の罪業を背負っていらっしゃるのだろう」
「先祖の罪業? 近親相姦のことですか?」
「それもあるだろうが――」