第77話 独善と純情
僕は再び僕の部屋のリビングのソファで、頬杖をついていた。
話し合いと言っても、どうすることができるだろうか。
タティは意図せず僕とエステルが身体の関係を持っていたことを知っても、怒り出すでもなければ僕の不貞を非難するわけでもなく、それどころがまるで自分に落ち度があったかのように涙を流す始末だ。
もっとも、それが消極的な攻撃であることは分かっていた。面と向かって激しく罵られたほうがまだましである、あの、目前で被害者顔をされる嫌な責め方を、タティはずっと僕に対して向けているのだ。
口喧嘩すら行われていないので、僕には彼女を責めることさえも許されない。そして僕は、僕がこの場における圧倒的な悪者であることを、暗に責め立てられ続けているのだ。
しかし、それは確かに事実ではあったが、僕がこんな状態にいつまでも我慢できるようなお人好しでないことを、タティは知るべきだった。誰が人生の主導権を握り、主人であるかを彼女は知るべきなのだ。
「そんなに僕のことが嫌だって言うなら、僕は別に、君と結婚しなくたっていいんだよ」
長らくの沈黙を打ち破り、僕が言うと、タティは泣きながら無言でかぶりを振った。
「結婚したいって言うなら、もっと機嫌よく過ごしてたら? エステルとはもう二度とない。それで話は終わってるだろう。
タティ、君の悪いところはさ、そうやってその……とにかくそんなに陰気な顔を見せられるんじゃ、僕もたまらないんだよね。
おとなしいのはいいんだけど、すぐ悲劇のヒロインになるのはどうなのかな」
「悲劇のヒロインにもなるでしょうよ」
何も言えずにうつむくタティに代わって、カイトが口を挿んだ。彼はさっき席をはずすと言っていたが、僕がそれを認めなかった。タティと二人だけになってしまったら、きっと喧嘩になってどうにもならないだろうと思ったから、仲介役が必要だと思って引き止めたのだ。
タティがいつまでも僕に歯向かって来ないのが、もしかしたら別の異性であるカイトがいるせいなのかと疑わしく思う気持ちが僕の中に燻っていた。この期に及んでタティが他の男に気を向けることに激しく嫉妬してしまう自分自身が、僕はもう分からなかった。
この酷い混乱状態を絶対に目下の人間であるタティやカイトに知られるべきではないと思ったので、僕はまるで兄さんみたいに足を組んで、横柄な態度で、それぞれがソファに座っているカイトやタティの間に視線を巡らせた。
「他の女と浮気はするわ、別の女に関心が向くわじゃ」
カイトはそんな僕を見て、面倒そうにため息をついた。彼は男でありながら、どうも僕ではなくタティの側に立って意見を言っているようだった。
「待て、それは全然違うだろう。僕がエステルと寝たのは、確かに非は認めるけどタティにプロポーズするよりも前のことだから、浮気にはならない。だいたいエステルとのことは、おまえだって幇助したじゃないか。責任の一端がないとは言わせないぞ。ベッドを提供したのは誰なんだよ。
それにだいたい、美人に見惚れて何が悪いんだ。綺麗な女がいたら、誰でも目がいくだろう。
カイト、おまえなんかその際たる存在じゃないか。おまえはルイーズから召使い女に至るまで、見境なしに目がいってるんだからな。僕に言わせればそれこそ、不誠実にもほどがある」
「論旨をずらそうったってそうはいきませんよ」
カイトは澄まし込んで言った。
「とにかく、貴方こそがタティに対する態度を改めるべきです。その、閣下の真似事みたいな態度をね。貴方はそんなのが似あう柄じゃないし、だいたい貴方、そんな横暴な振る舞いの責任を取れやしないでしょう。俺が言いたかったのはそれだけですよ」
「なんで僕が責められるんだ……」
僕はうんざりして言った。カイトの言い分がまったく分からなかった。
「マリーシアと寝たわけでもない、ただ見惚れただけのことを何でそんなに責めるんだ? 僕はタティをご主人様とでも思わなくちゃならないって言うのか? 婚約したら最後、男は他の女を見ることさえ許されないのか?」
「アレックス様、閣下でも言わないような屁理屈でしょう、そりゃ」
カイトは言った。彼が、僕の部下の癖に何だってタティ側についているのかということも、そもそも僕は気に入らなかった。
それに先刻彼が身分を弁えもせずに僕の胸倉を掴んだことにも、ものすごく腹が立っていたので、僕は顔を歪めてカイトに言った。
「カイトおまえさ、前言ってた好きな女って、もしかしてやっぱりタティなんじゃないのか? だからそうやってタティを庇っているんだろう。
だとしても、僕は別に構わないけどね……」
「違いますよ」
「じゃあおまえが僕を責めていることがどういうわけなのか、そうやってタティの味方をしている理由についても、僕に分かるように説明してくれよ」
「それをここで、タティの前で言わせるんですか?」
「そうだ」
「彼女に席をはずして貰ったら?」
「いいよ。それともタティがいると何か都合でも悪いのか」
僕が睨むと、カイトは諦めたように息を吐いた。
「……分かりました。そいじゃ、はっきり要点を言いますとね。
俺が問題だと言っているのは貴方がエステルと寝たことでもなければ、他の女に見惚れることがあることでもない。
貴方が、あのマリーシアっていうお嬢さんにあまりにも本気であることが問題なんですよ。貴方が、あのマリーシアって娘が運命の相手だってもう完全に信じていることが問題なんです。
あまつさえタティとの婚約を、間違えたと思ってしまっていることが顔や態度に出ていることが問題なんです。
貴方があんまりあからさまなのでこっちは見ていられないんですよ。だから俺はせめて態度には出すなと申し上げているわけです。浮気をするにしても最低限の分別をつけろと。タティが好きだからじゃありません、はっきり言って哀れだからです。
俺はアレックス様だけでなく、タティのことも昔から知っていますからね。子供の頃から知っている人間がおざなりにされるのを黙って見ていられない。悪いことにタティはよく躾が行き届いていて、貴方に何をされたって不平ひとつ言わないし、言える性格でもないでしょうからね。
これが俺が言いたいことのすべてですよ、お分かりですか?」
「そんなことを言って、タティが好きだから同情しているんだろう!」
「そんな分からないことをまだおっしゃいますか!?」
僕が怒鳴り声を出したのに、カイトが更に強い口調で負けずに僕を怒鳴ったので、僕はこの無礼が信じられずに顔を背けた。カイトがどちらかと言えば積極的な性格で、しかも図々しいということを差し引いても、主人である僕を怒鳴るなんて、いったい何様なのか腹立たしくてならなかった。
「ウェブスター男爵のご令嬢が可哀想だな。ヴァレリア。彼女が可哀想だ、こんな無礼な男と結婚させられるんじゃ」
僕は肘をついたまま、カイトを非難するべく大袈裟に呆れてみせた。
「彼女は由緒ある家に生まれながら、落ちぶれた下級貴族の、生意気で、無教養で、物事の順列を弁えず、しかも自分にはまったく気持ちがない男と無理やりに娶わせられるわけだ。可哀想な話だよ」
「アレックス様……、俺のことをそんなふうに考えていらしたんですか」
「事実だろう。僕が言ったことに、何か間違いでもあるって言うなら反論は聞くよ」
「いえ、おっしゃることは間違っていませんよ。俺は落ちぶれていて、生意気で、無教養。しかも貴族の血は恐らく八分の一。しかもこの年でまだ女を知らないし、だから情けないことに俺はこの問題に関して反論することさえできない、しかもそのことで年下の貴方に笑い者にされていていまや立つ瀬もないこれは確かです」
「……、おまえはタティが好きなんだろう、だからそうやって……」
「悪いですが、お話になりませんね。貴方ははっきり言って滅茶苦茶だ。少し冷静におなりなさい」
カイトはそう言うと、前髪を気障ったらしく撫でつけながら席を立った。
「待て、カイト。おまえこそ冷静になれよ、逃げるのか!」
僕がそう言うと、カイトは僕には目もくれずにタティを振り返ってこう言った。
「タティ、お気の毒ですが、貴方も今のうちに身の振り方を考えておいたほうがいいかもしれませんよ。
残酷なようですがこういった場合、アレックス様は閣下とは違い真面目なだけに、恐らく複数の女性にいい顔をしない。本気か関心がないかの二択です」
「だからそうやって僕を定義づけるな。おまえなんかに僕の何が分かるんだ。たった二つ年が上だってだけのことで、兄貴風を吹かせるなよ! それに、頭のよさなら僕が上だっ!」
「でもわたしはアレックス様を愛していますっ」
弾かれたようにタティは答えた。
「だから……、喧嘩なんてなさらないでください。どうか、問題を大きくしないで……。
わたしが好きならいいんですっ……。
何があっても、わたしはアレックス様を責めるつもりなんてないんです。だって、いつかこういうことになるって、頭の何処かでは、最初からちゃんと分かっていたんですもの。
アレックス様は身分がおありだし、それにとても素敵だから……、だからきっと誘惑だって多いって。
それにわたしなんかが本気で好きになって貰えるはずなんてないもの。
でもわたしはアレックス様のお傍にいられるだけでいいんです、結婚なんてして貰えなくたっていい、お傍にいられるだけで、それだけで……、だから……」
タティの様子は健気で、卑屈ですらあり、カイトは非常に切なげな顔で彼女を見下ろしていたが、僕の胸だって罪悪感に痛んでいないわけじゃなかった。
僕は何もタティのことが嫌いなわけじゃない。少し邪魔臭いと思いはしても、嫌いになったわけじゃないことは確かだった。
だからそれは違う、僕は君が好きだと言おうと思ったが、結局は言い出すことができずにうつむいた。嘘なんて言えない。
僕はマリーシアのことが、好きになってしまったみたいだから……。