第76話 不協和音
いそいそと部屋を出た僕に対し、カイトは暇だからご機嫌伺いに来たと言った。けれどもタティを振り払うようにして部屋を出てきた僕のことを、カイトはとても冷ややかな目で見ていた。
「よそよそしいな」
廊下に出ると、さっそく不満たらしくカイトは言った。
「な、何が」
「タティにですよ。貴方、最近はまったく彼女の目を見て話してないですね」
「随分、変なところを見ているんだね。僕に気があるの?」
僕は微笑し、上手い冗談を言ったつもりだったが、カイトには受けなかった。
「彼女、気づいていると思いますよ」
「気づいている? いったい何のことだよ」
「貴方の最近の明確な心変わり。何せ、貴方は分かりやすいほど顔に出ますからね。
タティは貴方ほどには態度に出しませんが、ありゃあ見ていて不憫に思えるくらいだ……。
ねえアレックス様、まったく何だって、そういうことになっているんです?」
「だから何が言いたいんだ」
痛いところを突かれたことを誤魔化すために、僕はわざと怒った声を出したが、カイトはそれに動じることなくこう言った。
「マリーシア」
さり気なく言われた言葉だったが、その意味は当然分かっていた。さすがに逃れようがなく僕はうつむいて黙り込んだ。
「あのお嬢さんのことが、頭から離れないんでしょ。俺が思うに、あれはアレックス様の好みにがっちりストライクだった」
「……」
「まあねえ。確かにあの娘は可愛らしかったですよ。何せ、あのフレデリック王子のお側に置いて貰えるような娘ですからね、並みの姫君なんかよりよっぽど美人で気立てだっていいんでしょうが……、でも貴方はタティがお好きだったんじゃなかったんですか?
まあ俺としても、アレックス様っていうのはどうも、閣下に似て女好きの素養はあるかなとは思っていました。どうも惚れっぽいと言うか、何と言うかね。しかし基本的には一途なもんだとばっかり……、ところが思いの外、気が多くていらっしゃる」
カイトが皮肉を言っているのが分かったので、僕はにわかに腹を立てた。
「そんなことは、おまえに言われる筋合いの話じゃない。部下なら黙っていろ。
僕が少しばかり他の女性に見惚れていたからって、それが何だって言うんだ。不倫したわけでもない、話をしたことだってない相手のことを、ただときどき思い出すっていうことのいったい何が問題なんだ。
確かにマリーシアは可愛いかったさ、でも手が届かない相手だってちゃんと弁えている。彼女は誰がどう見たって王子の物だったからね。王子の女性さ。我が国の輝ける薔薇君の。
だから彼女のことは、そのうち忘れてしまうだろう。でも今はまだ印象が強すぎるんだ。どうしても気持ちを消化しきれないんだよ」
「まま、そうむきにならず。俺は何も貴方を責めているんじゃないんです。アレックス様がおっしゃることは、俺にだってよく分かりますとも。まるで自分のことのようにね。
ただですね、それでもやっぱりタティに対する態度は、上辺だけでも改めてやらないと。
ほら、結婚するにあたって、今のところ彼女には貴方しか味方がいないような状況なんですから、そこで貴方が邪険にされていると、周りが」
「僕が何をしたって言うんだよっ」
「明らかに邪魔者扱いしてるじゃないですか」
「そんなことはないよ。僕は極めて冷静だし、ちゃんとタティに優しくしてる」
僕が言うと、カイトはそれまでの冗談めかして困惑した顔を少し真面目にした。
「いや、最近のアレックス様は、やっぱり少しおかしいですよ。昨年末、夜会に行くまではあんなにタティに張りついていたじゃないですか。執務室を抜け出すのに口実が見つからなくなって、しまいにゃ編み物をしなきゃいけないとか、暖炉の様子を見ないといけないとか、訳の分からない言い訳してらしたのに。
でも今は、思いっきり邪魔にしてます。彼女が側に寄ると、貴方さっそく逃げていますしね。部外者の俺が思わずタティに同情しちまうくらい」
「何だよそれ、酷い言いがかりだ。君は女のことなんか何も知らないくせに煩いんだよ」
「そりゃ……、確かにおっしゃる通り。俺はもてませんけど。でも人間を洞察する目はあると思っています。
ほとんど通りがかった程度の相手のことを、そんなふうにいつまでも憶えているっていうのはね、それは一目惚れって言うんですよ。人生にそうそう起こることじゃない。ましてや、周りが見えなくなるほどのそんな出会いは天文学的な確率かもしれない。
貴方、あのとき王子が連れていた他の人間のことを誰か思い出せますか?」
僕は鳥の巣頭の画家と、オーウェル公子のことを辛うじて思い出すことができたが、それ以外には誰が何人いたのかすら分からなかった。
「だ…、だったら、思い出せなかったらどうだって言うんだ、確かにこれは自分でもおかしいと思うよ。ひと目見ただけの女のことが頭から離れないなんて、でも仕方ないだろう、だって、だって、ものすごく好みだったんだから!
まるでシェアが……、僕の理想が服を着て歩いているみたいだったんだ、僕はずっと、生まれてこのかたずっとずっと、マリーシアを探していたという気さえしているのに、これを忘れられるわけがないよ……、忘れられるわけが……」
「もしかして、あのお嬢さんがエステル嬢に似ているから? 貴方、本当はエステル嬢のことが切れていない?」
思い出したくもない名前を言われて、僕はさすがに気分を害した。
「エステル? ああ、彼女のことは別に何とも思ってないよ。おまえが名前を出さなければ、あんな女のことはすっかり忘れていた」
「……、情を交わしておきながらその言い草もないでしょうに。アレックス様らしくもない」
「何だよ。僕らしくないって何だ。おまえにはまだ分からないんだろうが、あんなことは別に大したことじゃないのさ。男なら、性行為なんてごく自然なことだ。女は愛でるべき存在かもしれないが、でもしがみつくようなことじゃない。もっとも、童貞の君には分かるべくもないだろうが。もしかしたら一生分からないかもね」
そして僕が腹立ち紛れにカイトをせせら笑うと、彼としては珍しくかっとなったのが分かった。
カイトは僕の胸倉を掴み、それは物凄い力で僕は驚いてもがいたが、やがて急激に腕から力を抜いて頭を振った。
「……すみません、ご無礼を。俺としたことが、少々冷静さを欠きました。
俺は少し席をはずしますよ。貴方はちゃんと話し合ったほうがいい」
それでカイトは僕の後ろのほうに顎をしゃくった。手下に胸倉を掴まれた腹立たしさを隠しきれずに服を大袈裟に調えながら振り返ると、そこにはタティがいて、彼女はバスケットを持って震えていた。
「ごっ、ごめんなさい、立ち聞きするつもりはなくて……。
あ、あの……、遠乗りをされるって、だから、ランチを……」
タティは例のごとく涙をこぼしていた。
「ごめんなさい……、許してくださいアレックス様……」




