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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第8章 運命の少女
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第75話 恋とマリーシア

それから数日間に及ぶ王都での年末の日程のすべてを、僕はパーティー会場ごとにマリーシアを探すということだけに費やしていた。

甘い囁き声のような話し方と、あの夢のような気配を頼りに、僕は賑やかな夜毎マリーシアのことだけを求めてさ迷い歩いていたのだ。

きっと一晩眠れば忘れてしまうだろうと思っていたあの夜の憧憬が、思っていたよりもずっと僕の心に侵食し、浸透し、あっという間に僕のすべてを支配してしまったことを、自覚したときにはもう遅かった。

恋がこんなにも狂おしいものだったことを、僕は知らなかった。僕は立ち竦み、泣き喚き、胸を掻き毟って夜空を見上げ、彼女のことをただ想った。眠れない夜、僕は鳥になって、夜風になってマリーシアのもとへ駆けつけたい衝動に駆られてはそれが叶わぬことであることを知り、幾度も窓辺に朽ち果てた。僕はまるで病気のようになってしまったが、それでも構わなかった。彼女という光がこの世界に存在していることを、知らなかった暗闇に戻るよりは。

今では何をしていても、何も手がつかないほどにあの夢の少女のことばかりが僕の心を満たして、僕のそれ以外の人生のすべてを空虚で無意味なものにした。彼女の存在しないこの退廃的なまでに刺激のない人生のことを。

僕はあの女性に出会った瞬間に、真実の恋と、そして世界を知ったのに、彼女が僕のものじゃないなんて、そしてこれからもきっと僕のものになりはしないなんて、まるで悪夢の中に生きているようだった。

何故なら、彼女は紛れもなく僕のシェアだったのだ。

シェアという女性は、確かに兄さんのものだった。彼女は僕より年上で、そして美しい人だった。だけど、僕が彼女に出会ったその瞬間から心の中で作り上げてきたシェアという女性は、兄さんが抱き寄せていたあの女性とは異なる、誰よりも兄さんを愛し慕っていたあのシェアとは別人の、僕だけの女性だったのだ。

そして僕の心の中にだけ生きていたシェアは、本当は、実際にはマリーシアという名前だった!

今は王子の傍にいるとしても、彼女は本来なら僕の傍にいるべき女性なのだ。

ひと目見た瞬間にそれが分かったのに、僕は彼女に会うことも、この気持ちを伝える手立てさえも持たないことが悲しくてならなかった。一瞬で誰かを強烈に愛してしまうなんて感覚を、僕は生まれて初めて体験していて、マリーシアを想うだけで身体の奥が真実の愛情と興奮で震えるようだった。

一方で、マリーシアと出会って以降僕の日常は目に見えて色褪せていき、退屈と惨めさ、そして酷い後悔が延々と僕を苛んでいた。兄さんが以前言っていた言葉が、ようやく僕にその事実を教えるべく再三に渡って脳裏を駆け巡っていた。他でもないこの僕もまた、愛情と性欲を履き違えたのだ。

勿論タティのことは今でも大切だと思うし、一緒に育ってきたという意味での情もある。彼女は僕にとってかけがえのない家族には違いないが、マリーシアを想うときのような充実感や輝きはなく、正直に言えば近頃の僕はタティと顔をあわせることさえ少しつらかった。

タティのことは愛している。

でも、マリーシアのことはもっと、もっと愛している……。

そのことを、タティの顔を見るたびに、泣きたくなるほど思い知らされて苦しかった。ここにマリーシアがいないことを、そして無邪気に僕を慕ってくれるタティが、マリーシアではないことを……。

僕が罪深い人間だということは分かっていた。






新年には大雪が降り、それからひと月以上の日々が瞬く間に過ぎていた。

ローブフレッドではごく当たり前の、冬の有り触れた雪景色さえも、マリーシアの清楚で頼りない風情を思い出させて僕の胸を締めつけた。

僕はこの心にマリーシアだけを抱き、タティにそれを悟られないために愛想笑いで応対をして何とか日々を平穏にやり過ごしていた。

タティと結婚をするために男子をなさなければならないことも、少し前まではあれほどの情熱をもって臨んでいたことだったのに、今となってはもうあまり意味を持たない事柄になってしまっていた。気持ちの変化を知られるまいとして、身体の関係を持つことはしていたが、もう心はともなわなかった。そして僕は自分自身とタティを裏切り続けるこんな人生に少し疲れ始めていた。

僕はただ、マリーシアに触れたかったのだ。あの清らかな手に。愛らしい唇に。彼女が今頃王子に抱かれているのかと思うだけで、僕は気持ちが荒れてどうにもならなかった。あのあどけなく細い身体を、金色の長い髪を、王子にどれだけ好きなようにされているのかを思うと、叫び声をあげてしまいたいほどだった。

これはまさに身を切られるような気持ちだった。王子は未来の国王で、あれだけの美しい容姿をしているのだから、それこそ自由になる女など星の数なのだろう。好きなだけ女性を選べることにかけて、兄さんでさえ比でないに違いない。

そして愛する人が、そんな男の一時の快楽のためにいいようにされていることを思うとき、それなのに僕にはどうすることもできないことを思い知るとき、人生においてこんな酷い気分もそうないものだろうとつくづく思う。

そんな酷い日には、タティが話しかけているのに聞こえないふりをして、僕は本のページをめくっていた。視線は文字を意味もなく辿るが、内容は頭に入らない。心はここにはなく、僕はただ耐えていたのだ。この苦しみに。現実に。恋の狂おしさに。マリーシアへの耐え難い愛慕を抑えるのに、ただ必死になっていた。


「アレックス様、あのね、ランチを作ったんです。一緒にお庭の雪を見ながら食べようと思って……」


そう言って親しげに微笑みかけてくれるタティの存在を、煩わしく感じているなんて酷い現実から、僕はもうそろそろ目をそらし続けることができないほどに心の中がマリーシアのことで占められていた。

ああ、こんなにも残酷な自分が存在していたことを、僕は信じられるだろうか?

僕はもう、タティが邪魔だったのだ――。


「ああ……、ごめんタティ。聞いていなかったよ。これからちょっと、やることがあるんだ。だから悪いけど、ランチは今度にしてくれるかい」

「……」


もう少しで、以前みたいに冷たい態度を取ってしまいそうになるところを、堪えているなんて言い方はおかしいのかもしれないが、僕はタティといることが、もう絶望的に退屈でならなかった。


「ほら、カイトが来ている。そう、彼と約束しているんだ。遠乗り、そう遠乗りの」


僕はリビングの開かれた扉の向こうに、たまたまカイトがいるのを目敏く見つけると、彼と約束なんかしていたわけでもないのにさっそくそのことを利用した。


「はい、分かりました……」


タティはしゅんとして頷き、そして気持ちよく僕を送り出してくれた。


「どうぞお気をつけて。昨日の夜も随分雪が降って……、お外は何処も雪が積もっておりますから、お足もとに注意されてくださいね」

「ありがとう」


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